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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    三 商品流通の新展開と越前・若狭
      廻船業への出資
 ところで、一般に廻船業を行うためには船の建造費などの資金とともに航海技術に長じた船頭以下の乗組員が必要であろう。買積経営の場合は、これに商品購入のための資金が上積みされる。船の建造費は一〇〇〇石積で約一〇〇〇両といわれるほどであるが、ひとたび難船となれば船や積荷のすべてを失うことにもなりかねない。しかし、早春や晩秋など海上が荒れやすい時期の方が、運賃や買積した商品の相場は上昇して利益が大きいため、海難の危険を冒しても廻船を上下させる者が跡を断たず、これが難船を引き起こす大きな要因ともなった。
写真81 難船証文

写真81 難船証文

 小浜湊を代表する船主である古河屋嘉太夫家も、浮沈の激しい廻船業を営む一方で安定した商売として酒造業にも手を染めており(古河家文書 資9)、敦賀湊の大和田正助家では、「舟は金すて(捨)もつこニて御座候、慎可申事、むかしより舟もちニ金持はなし」と廻船業への参入を禁じ、しかも、「たとえ他から『歩持』の誘いがあっても加入してはならない」と徹底させていた(大和田みえ子家文書 資8)。この「歩持」とは一般に共同出資を意味し、船の場合は廻船加入とも呼ばれた。古河屋嘉太夫等はその実情と必要性について、「諸国では大船を所持している者もいるが、それは一艘に数人が相互に廻船加入をしており、一人で大船一艘を持つ者は稀である。それは損失が大きい時に、それを加入者で割ることで被害を少なく済ませるためである」と述べている(古河嘉雄家文書)。利益も損失も分割する「歩持」は、得失の激しい廻船業を安定化させる方策として有効なものであった。
 ただし、この「歩持」は外見では判断しにくいものである。敦賀湊の酒造家備前屋吉兵衛は、文政十一年(一八二八)に同湊の山下五右衛門と半額ずつ出資して二艘の廻船を造った。備前屋では、「出し」と呼ばれる部分に付ける船印に備前屋の印を用いさせ、山下家だけの船ではない旨を確認させる一札も得ていたが、名義上は山下家の船であった(那須伸一郎家文書)。こうした「歩持」の出資者の範囲も、湊や浦で直接海にかかわる者だけでなく、河川水運を利用して商業にも手を染めた坂井郡鷲塚村の久保庄右衛門家のように、内陸部の有力百姓にまで広がっていた。難船の危険性をはらみながらも、廻船の「歩持」は広範に展開していたと想像され、近世後期から幕末にかけて廻船業への投資は有力な資金活用の対象とされた。
 



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