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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    三 商品流通の新展開と越前・若狭
      西廻海運の担い手
 このように、別々の流通ルート、流通圏を持っていた米と鰊肥料、あるいは各種特産物は、新たに西廻海運の沿岸一帯を巨大な流通圏として移動することとなった。これは西廻海運が新たな段階を迎えたことを示すといっても過言ではなかろう。すなわち北国海運による流通ルートでは、前述のように拠点としていた敦賀湊で近江商人の荷所船としての船腹需要が減少する事態となった一方で、大坂を初めとする西廻海運の沿岸各地においては、鰊肥料需要の増大や各種特産物による商品流通の展開に対応するため船腹需要が増加した。
 これに対応して、荷所船として鰊など松前物の輸送を担ってきた北国の船主たちは、減少しつつある荷所荷の船腹需要を独占するために船仲間を結成するとともに、荷所船としての雇船時に不正のないよう仲間内の統制強化を図った(『敦賀郡誌』)。その一方で、買積による廻船経営に主力を移すとともに、西廻海運の流通ルートにも乗り出し、直接大坂とも結び付くようになった。もっとも、先述したように、北国の船主の中にはすでに米買積廻船として大坂へ進出していた者もいた。その実績から、鰊輸送を主としていた北国の船主たちも、無理なく西廻海運の流通ルートへ進出できたのであろう。米買積廻船としての北国の船主たちもまた、米や地域の特産物とともに鰊肥料を求めて蝦夷地まで足を伸ばした。
 さらには、上方船も新たな西廻海運の主力商品となった鰊肥料を求めて蝦夷地まで進出を果たすことになった。江差湊に入津した大坂船の中には、菱垣廻船問屋として知られる柏屋勘兵衛や富田屋吉左衛門の廻船さえみられる(関川家文書)。西廻海運の変化は江戸―上方間海運の船腹需給関係にさえ影響を与えたのであり、天明期を起点とするという菱垣廻船の衰退にはこうした動向も背景にあったと考えられる。
 こうして、近世後期に大きな発展を遂げた西廻海運の流通ルートの中で、上方船とともに北国の廻船も、米や鰊を初めとする諸産物の輸送において同じ土俵で競合することとなったのである。もっとも、当初その主体は淡路出身の高田屋嘉兵衛のような上方船の勢力が強かったと思われる。



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