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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    三 商品流通の新展開と越前・若狭
      南家の廻船業の変化
 丸岡藩の蔵米輸送を行った梶浦の南家は、実は、同家の一族で米積廻船業を主とする者であった。この南家の廻船経営がどのように変化したかについて、同家の「金銀覚帳」を用いて資金前渡し先や預け先の変化からみることにしよう(南勇家文書)。
写真79 入船帳

写真79 入船帳

 南家はすでに宝暦十二年には「はがせ船」五艘を持つ船主であり、その資産も三三四二両に及んでいる(南勇家文書)。その経営内容を翌十三年における他国への冬買のための資金前渡し先などでみると、越後今町の美濃屋善兵衛に買米代三五〇両、新潟の塩屋弥惣右衛門に買米代五〇〇両、出羽酒田の越後屋三右衛門に四四三両余、同所の真嶋屋伝兵衛に四一三両余であった。酒田の両家には三〇枚入りの古手一〇箇の代金五〇両および以前積み残した米一〇〇俵分(二五両相当)の未回収分もあったので、前貸分の総計は一七八二両余にも及ぶ(同前)。これらの米がどこに売却されたかを特定する史料はないものの、その翌年の明和元年では立ケ浜塩一万〇八三九俵分が計上され、同二年には大坂の奈良屋平兵衛と淡路屋七兵衛に銀八貫匁(一二六両余相当)が預けられていることからも、その売却のために南家の廻船は大坂あるいは瀬戸内まで進出していた可能性は高い(同前)。また、そのような実績があればこそ、瀬戸内で丸岡藩の蔵米を完売できたのであろう。
 南家の資金前渡し先などが、安永五年(一七七六)にはどう変化したかを次に示そう。前渡し金としては、越後出雲崎の越前屋与四郎に三八五両余、新潟の三条屋九郎右衛門へ五〇一両、出羽酒田の真嶋屋伝兵衛に四二三両余のほか、越中西岩瀬蔵米五〇〇石分として宿である米沢屋甚助に三八〇両余などがあった。そのほか相手先は不明ながら多喜浜塩二五〇〇俵分の一〇六両三歩余、そして大坂の伊丹屋四郎兵衛・奈良屋平兵衛・大和屋甚兵衛には種(菜種)の代金一三二両余などが未回収分として預けられていた。さらに注目すべきは、この伊丹屋四郎兵衛方には鰊五五四箇も預けられていたことが判明することである。実は、この前年の安永四年には、南仁左衛門船八人乗りが江差湊の関川家の元に初めて入津している。それも大坂江の子島で櫓櫂問屋などを営んだ多田屋清左衛門の添状を持参してきたもので、近江商人八鳥組の各店に挨拶したという(関川家文書、「浪花買物独案内」)。従来は米積廻船を主としていた南家のような北国の船主たちも、肥料需要の増大に呼応して、取扱商品の中に蝦夷地産物を加え、蝦夷地から大坂までを範囲とする流通ルートを担うことになったといえよう。
 江差湊の関川家の「入船通」からみた越前船の船籍の変化もそれを裏付けている。表106によれば、宝暦年中は敦賀や河野浦の船がほとんどであったのに対して、宝暦末年から明和・安永期となるにつれ、三国や梶浦、吉崎浦の船の入津が見られるようになる(関川家文書)。これらは米の津出湊である三国湊およびその周辺の廻船であり、南家と同様に、米積廻船を主としていたのが蝦夷地産物の輸送にも参入してきたことを示すものであろう。

表106 江差湊関川家の「入船通」にみる越前・若狭の廻船

表106 江差湊関川家の「入船通」にみる越前・若狭の廻船



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