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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      小規模の廻船業の展開
 越前海岸の各浦には、相木又兵衛の廻船よりもさらに小規模の船によって廻船業が営まれていた。元禄十六年に丹生郡樫津組から提出された「村々大差出帳」では、道口浦に廻船七艘、漁船一〇艘、厨浦に廻船一艘、漁船一四艘、高佐浦に漁船一一艘、居倉北山村に柴積舟三艘があった(田中甚助家文書)。ここでいう廻船は二種類に分けられ、四〇石積のものは加賀・能登・越中・佐渡・越後にまで通い、二〇石積のものは敦賀・若狭・丹後までを航行範囲としていた。また、厨浦の漁船(釣漁船)は、十二月から四月までのつのじ鮫・鰈・鯖釣漁が終わると、丹後・若狭または越後や加賀辺へ口過ぎのために商いに回っていた(第二章第四節)。居倉北山村の柴積舟も、柴や茅、小杪を積んで三月から九月まで八里離れた三国湊へ売りに行くものであった。
 このような小規模の廻船業は、その性格上、詳細な経営内容までは不明だが、渡海船(商い廻船)としての船役銭を徴収されるのならば、直ちにこの稼ぎを止めるというようなものであった(青木与右衛門家文書 資5)。しかし、それは浦々の船持ならば誰でも行えるものであり、相木家の廻船業、あるいはそれ以上の規模に成長することも可能であった。
 越前海岸沿いの浦々では藩領が複雑に分かれて、沖口制度の取締りがなかなか徹底しない状況にあった。積荷がその浦の産物、あるいはその浦で入用の品物ならば、沖口制度で規制の対象となる商物の船積出入りとは見なされなかった(本節第一項)。これら小規模の廻船は、端浦から間道を利用して内陸部に至る商品輸送と連携することにより、商品流通の展開を徐々に、しかも着実に前進させる役割も果たした。



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