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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      船問屋からの情報
写真78 船荷問屋

写真78 船荷問屋

 相木又兵衛の廻船が年に数度も出入りし、さらに小規模な廻船が集散していた敦賀湊は多くの船問屋が軒を連ね、物資とともに多くの情報が飛び交う地であった。廻船活動が活発になるにつれ、船問屋は得意先である廻船(客船)が仕入れたり売りさばきたい商品の情報、仲買の商品取引についての情報、さらに荷主から運賃積荷物のために廻船を必要とする情報などの仲介役を果たすとともに、時には資金の融通も行った。その意味では、近江商人の意を受けて荷所船を調達することも、船問屋の役割の一つであったといえよう。
 敦賀湊の商況については、佐渡岩谷口の船主舟登源兵衛家に、敦賀湊の商人との間で頻繁に取り交わされた書状が多く残されている。敦賀湊の船問屋古跡庄兵衛が、元禄六年十月に米や大豆の相場書とともに伝えた商況の一節には、「上方の石(穀)物の様子については、先月末は船の入津がよくないので在庫がなくなり古米がよく売れたが、この頃は在庫が多くなったため大坂・大津ともに古米が一切売れなくなり、段々下値になった。そのうえ北国筋の作柄がよいので、そちらでも米は下値になるだろう。現在上方で下落しているのは来年のためにはよい。そちらで下値ならば買置きされたほうがよいであろう」(舟登源兵衛家文書)とある。このように、大坂や大津の商況とともに各地の作柄など相場変動の要因となる情報が提示されている。他の書状にも、入津船数と持ち込まれた商品量、この年の下関付近での大量海難の様子など、今後の廻船活動を左右するような情報が盛り込まれることもあった(同前)。
 多くの廻船にとって、船問屋が収集し発信する商況に関する情報は、買積の方が儲かるか運賃積の方が堅実に利益をあげられるか、あるいはどこで仕入れどこで売り払えばよいかを判断し、収益を上げ経営を成功させるためには必要不可欠のものであった。そして、敦賀湊と同様、小浜湊や三国湊など日本海海運の拠点となる各湊の船問屋の元にも、情報を求めて集散する廻船の姿がそれぞれあった。



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