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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      近世中期の米積廻船
 一方、日本海海運の最大の取り扱い物資である米についても、生産力の発展とそれにともなう農民的商品生産の展開により、納屋米と呼ばれる百姓の余剰米が流通するようになり、また、年貢米も地払いされ売買の対象となるなど、商品として日本海を流通するようになった。
 すでに寛文年間に、西国の商船により北国の米・大豆などが買い込まれていたように(「寛文雑記」)、小浜湊の船持たちも延宝から貞享頃には米の収穫の終わった頃に北国へ出かけ、「冬買」と称して穀物を安く買い込み、翌春に手船で輸送して大きな利益を得ていた(『拾椎雑話』)。ここにいう北国とは、敦賀湊の船持たちが上下した越後・秋田・酒田辺りを指すのであろう(港町漁家組合文書)。実際、越後新潟、出羽酒田などの河口湊には米蔵が建ち並び、諸藩や幕府領の年貢米などが川下げされ、年貢米や商人米を積む大小の廻船が輻輳していた。
 坂井郡浜坂浦の松下藤右衛門もそうした一人であった。藤右衛門等六人は例年敦賀や若狭の船問屋で資金を借り、越後新潟で買置きした米穀を手船で輸送し売買していたが、享保十一年の冬に新潟の米問屋を通じて買い請けた村上藩の蔵米が調わず、その代金分の六〇五両余を一二通の為替手形にして大坂で払い戻す約束に変更した。この支払先は藤右衛門等が大坂で船宿とする加嶋屋久右衛門であった。すなわち、幕末頃のように大坂を拠点としていたかは別として、この頃には日本海沿岸の廻船も大坂へ行き来していたことを示すものであろう(松下俊夫家文書)。
 こうした米を積んだ北国の諸廻船の場合は、相場の変動をにらみながら、次に示す廻船経営の事例のように、敦賀湊、小浜湊から下関さらには大坂までも売却先と考え、日本海を頻繁に上下した。



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