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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      松前物と荷所船
 元文四年(一七三九)に著された『北海随筆』が「干鯡を田家に用ゆる国々は南部、出羽、北国、近江にかけて」と述べたように、近世中期には松前・蝦夷地産の鰊(鯡)肥料の需要がみられ始める。その普及範囲は、まず北国海運の沿岸とその終着地である敦賀湊や小浜湊の後背地である近江であった。近江への輸送ルートの途中にある新道野の西村孫兵衛が「御城米大坂廻り相始り此筋へ登り申候事少ク、松前荷物ニ替り候」と述べているように、西廻海運の展開により北国諸藩からの米の入津が減少した敦賀湊や小浜湊では、松前物の入津は逆に増加した(旧西村孫兵衛家文書 資8)。そしてその海上輸送を担っていたのが荷所船であった。
 荷所船とは、特定の船型を示す言葉ではなく、柳川・薩摩と八幡の近江商人が両浜組と呼ばれる組織を結成して、これが共同雇用した廻船で、敦賀・小浜湊を拠点に松前との間を往復し、松前方面へは米・酒・茶・煙草・呉服などを、登りには松前物と呼ばれた鰊など蝦夷地産物を二〇貫匁から二五貫匁までの梱包荷物(荷所荷)にして輸送した(『敦賀郡誌』)。なお、荷所船は近江商人が扱う分の輸送船であり、このほかに買積などで松前物が輸送されなかったわけではない。
 積み込まれる荷所荷は、海難時の危険分散のため、荷主である複数の近江商人が少量ずつ積載しており、例えば寛保元年(一七四一)に難船した坂井郡吉崎浦の又左衛門船では、鰊などの荷所荷四六八箇の荷主は近江八幡の西川市左衛門など近江や江差湊の六人に分かれていた(山本計一家文書)。
 荷所船の多くは加賀橋立、越前河野および敦賀の船が従事していたという(『敦賀郡誌』)。敦賀湊では、高嶋屋久兵衛などの船問屋(船宿)が、近江商人の意を受けた荷所問屋と廻船の船主との仲介役となって荷所船の雇船交渉に当たっていた(高嶋屋文書)。そして契約がまとまれば荷所船貸証文を交わし荷所船としての運賃積輸送が実施された(高嶋屋文書、関川家文書)。使用された廻船も、その時期に日本海海運に多く使用された船型を反映して、元禄期には「荷所大ほつこく(北国)」と呼ばれた「北国船」から(舟登源兵衛家文書)、宝暦(一七五一〜六四)期の中村市三郎船のように弁才船へと変遷している(高嶋家文書、関川家文書)。
 こうした、松前物を輸送する荷所船としての船腹需要は、南条郡河野浦で「渡海船を多く所持して江州商人の荷物を沢山積み送り、その運賃で納所も渡世もしてきた」と語られているように(中村三之丞家文書)、越前や加賀の船主には魅力的なものと映っていたようである。



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