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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      近世中期の敦賀湊
 西廻海運という新流通ルートが加わった新たな日本海の流通構造の中で、従来の北国海運の流通ルートの拠点湊であった敦賀湊や小浜湊は大きな影響を蒙った。
 享保三年に敦賀湊では、年々着津する船が減少するのをみて、越後新潟の米を敦賀廻りで大津へ運んだ場合と西廻海運で海路大坂に運んだ場合の運賃などの諸経費を比較している。その結果、前者が米一〇〇〇石当たり諸藩の蔵米で銀一〇貫余、商人米ではさらに割高になることが判明した。そこで、諸経費の引下げを商人たちに求めてはみたものの、「年々着船が減少するのも無理からぬことだ」と半ば自虐ぎみに述べている(「指掌録」)。諸経費の比較は寛文七年にも実施されており、その時には「道中の懸かり物が大分かかるというがそれほど違いはない」と強気であった敦賀湊の姿は、もはやみられない(「寛文雑記」)。実際に、寛文期から天明(一七八一〜八九)期にかけての敦賀湊の着船数と米入津量の変化は図13のように推移している。着船数で約半分、米入津量で約三分の一に落ち込むという現実は、北国諸藩の年貢米輸送ルートが西廻海運を利用したものに大きく変更されたことを、敦賀湊に実感させたに違いない。
図13 敦賀湊への米の入津量と入船数(1651〜1800年)

図13 敦賀湊への米の入津量と入船数(1651〜1800年)
注) 「指掌録」により作成.                                              
 もっとも、西廻海運に難点がまったくなかったわけではない。その一つは、海路が三倍から四倍も長距離となって海難の危険性が増すことである。難船による損失をまったく想定しない諸経費の比較では問題があろう。もう一つは、北国から敦賀湊や小浜湊までの北国海運ならば「春から秋中までに五、六度は上下する」ことが可能であったのに対して、西廻海運で北国と大坂との間を往復するのは年一回がせいぜいで、とくに日本海沿岸北部ではその一往復も困難な場合があった(「寛文雑記」)。つまり、西廻海運に移行するには北国海運の五、六倍の利益を上げられるような価格差や運賃の存在が必要であったことになる。このほか、敦賀湊や小浜湊には、ここから海路で北国方面へ向かう下り荷物の船腹需要が引き続き存在しており(同前)、北国海運の発着点としてこれまで蓄積されてきた冬期の囲い船の機能、造船や船の修理に当たる船大工などの技術の集積があった。
 すなわち、西廻海運の展開が即座に北国海運や地廻り海運を完全に駆逐するという状況ではなかった。さらに、北国海運および敦賀湊や小浜湊は、別の意味で重要な位置づけをされるようになる。



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