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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      近世前期の地廻り海運
 「遠目鏡」によれば、敦賀湊への越前諸藩の新米輸送は年内から翌春までの間に行われ、越後・出羽などの日本海沿岸北部諸藩が翌年の四月から五月にかけて輸送していたのより約半年早い。日本海沿岸の諸藩では米収穫後の秋冬の荒れた海を長距離輸送するのが困難であったのに対し、越前諸藩の米を津出しした三国湊から敦賀湊までは約二五里にすぎず、日和の判断さえ誤らなければ近距離の海上輸送は十分に可能であった。近世初期における近距離輸送、いわゆる地廻り海運は、三国湊では「はがせ輪番」、敦賀湊では「ともおり順番」により担われていた。
 「はがせ輪番」は三国湊周辺の五か浦(三国・三国宿・米ケ脇・崎・新保)の漁船が、「ともおり順番」は敦賀湊の川舟座や両浜座の漁船が、それぞれの湊から積み出される商人荷物の輸送に従事し、しかも他国船より優先的に荷物を積載できる特権である(久末重松家文書 資4、港町漁家組合文書、「寛文雑記」)。こうした特権は、福井藩の年貢米輸送に従事した「はがせ輪番」のように、領主への奉公の由緒や実績によるものであった。
 しかし、西廻海運の展開や宿駅制度の整備による陸上輸送との競合などから地廻り海運を利用する荷物が減少し、一方では他地域の廻船が成長してきたことによって特権的な漁船の退転を招き、あるいは荷物の扱いの悪さが荷主の不評を買って輸送荷物の減少に拍車をかけた。寛文四年には、加賀の商人から荷物の輸送ルートを小浜湊経由に変更することも辞さないと申しかけられ、これを機に敦賀湊では「ともおり順番」の特権が制限を受けた(「寛文雑記」)。三国湊でも、元禄五年に起きた運賃の高下をめぐって漁船持と三国湊の問屋とが争論し、その時に「はがせ輪番」は一時破れたという(「問丸由緒書」浅田文書、久末重松家文書 資4)。しかし、享保十七年の福井藩では少なくとも三〇〇〇石前後の蔵米が大津市場に仕向けられていたように、こうした特権的な地廻り海運の担い手の衰退は、地廻り海運自体が衰退していったことを意味するのではなく、一方で新たな担い手としての越前海岸各浦の漁船持による地廻り海運への進出の契機ともなった。



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