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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      越前諸藩の廻米先の変化
写真77 三国湊の御蔵(「三国浦絵図」)

写真77 三国湊の御蔵(「三国浦絵図」)

 越前諸藩における年貢米の換金先は、西廻海運が加わった新たな日本海の流通構造を受けて変更された。福井藩を初め、越前諸藩の年貢米の処分に関しては不明な点が少なくない。しかし、各藩は河川交通を利用して河口の三国湊に年貢米を集めた後、海運を利用したのは間違いない(『通史編3』第四章第三節)。三国湊には福井藩や幕府領の米蔵のほか、商人の町蔵も多数存在していた。その多くは越前諸藩が借用し、廻米に備えて川下げした年貢米を一時的に保管するのに利用された(「家譜」)。
 福井藩の廻米先の変化をみよう。享保十七年(一七三二)に幕府の質問に対して福井藩が回答したところによれば、年貢米の廻米先は、大津向けに六〇〇〇俵から七〇〇〇俵(三〇〇〇石前後)のほか、大坂や大津向けに二万俵(九〇〇〇石余)とされている(「家譜」)。豊凶による廻米量の変化を考慮すれば、この廻米高は「遠目鏡」にみる天和(一六八一〜八四)期の福井藩の大津向け廻米高一万石と大きく隔たることはないであろう。この時期の福井藩に大名貸を行った相手は京都が主であり、その返済方法は、年貢米現物を引き渡すのではなく、大坂や大津で年貢米を売却してその代金を充てていた(同前)。そこでは、大坂廻米はあくまでも市場条件に応じて実施されていたと考えられる。同様のことは鯖江藩でもみられ、享保十五年には低迷する大坂の米相場の動向から大坂廻米を見合わせたいとの意見も出されている(間部家文書)。
 こうした大坂廻米は、加賀藩においてはひと足早く本格化していたが、福井藩など越前諸藩においても、年貢米の販売先として従来からの大津市場への流通ルートのほかに、西廻海運による大坂市場への流通ルートが有力なものとして認識されるようになっていたことを示している。



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