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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    一 越前における流通統制と沖の口制度
      浦々の反発
 ところで、寛政十年六月には、領分諸産物の儀について郡奉行東郷三郎右衛門が取締方河野・今泉仮口銭役下役・浜方吟味兼帯勤を仰せ付けられている。その理由として、敦賀など一円領知していた時には敦賀などへ端浦から荷物を自由に出し入れしていたので、端浦での諸産物の出入は前々から禁じていたのに、領知が替わっても同様に出し入れしている、近年の三国湊と滝谷との出入の時、幕府に対して「越前国湊定法并端浦締方等」をくわしく届けてあるので、端浦の取締りを仰せ出したところ端浦から難儀の旨を願い出た、この願いを取りあげては幕府に「相済不申」、国中も不締りになるからであり、役向きは支配下浦々から交易の諸品々を調べて早速知らせるというものであった(「家譜」)。
 また、享和三年のものと思われる丹生郡四ケ浦のうち新保浦の両林平左衛門の願書中には、福井藩の塩の専売に関連して四ケ浦近辺での交易の実態が記されている。それによれば、寛政年中以来、西国から越前へ入る塩は三国湊で福井藩が買い上げることになったので、領内端浦では一俵も売買の取扱いはしないように仰せ渡され、塩入用の節は三国湊で御払塩を買うことになり、そのようにしてきた。しかし同じ四ケ浦のうちの大野藩領小樟浦出村の者が近年塩を過分に取り扱い、同領織田郷一三か村はその者から塩を買い四ケ浦の内を通行するので、当浦が疑惑をもたれそうで残念に思っている。さらに小樟浦本村は坂を一つ越えれば山中村へ出られ、幕府領道口・厨両浦は織田村への往来道があり、幕府領茂原・高佐両浦は平等村のほか千合谷村・二階堂村へも出口がある。それで、四ケ浦の取締りを厳重にすると他領の者の諸交易を盛んにすることになり、他領が栄え領分は不繁栄という歎かわしいことになる。厳しい取締りのため現在は、織田郷一三か村は申すにおよばず、山中村を初めとする四ケ浦から三、四里内の福井藩領の数十か村も他領で勝手に交易するので四ケ浦は不繁昌の体となり困っている。田地がなく畑だけの浦であるので、飯米・雑穀などは織田郷の村々と塩肴などと交易してきたが、四ケ浦口への塩を差し留められたので困っている。四ケ浦より一里北の幕府領福井藩預所の玉川や左右・居倉の三か浦は他国から塩を買い込み最寄りの郷中へ売り払っている。預所であるので取締りも厳重でない。四ケ浦で入用の魚塩、味噌・醤油のための塩などは三国湊から買っているが、海上一三里もあり、また九月から四月までは天候も悪く、三国湊は荒磯でしかも川湊であるので難儀するため、敦賀へ魚類を積み送り帰り船で敦賀の問屋方から少々ずつ交易したりする。このままだと、密売買をする者が出るかもしれないので、以後私(両林平左衛門)を塩方問屋支配役にして、塩を取り扱わせてほしいというのである(両林家文書)。
 この二つの事例からは、沖の口法度の効力が福井藩領だけに限られ、しかも、端浦までは十分には機能していない様子が読み取れる。



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