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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    一 越前における流通統制と沖の口制度
      「沖口法度条々」
 寛政元年春から三国湊の水深はとくに浅くなり、諸廻船は正保元年(一六四四)に滝谷出村との境に移された川口番所より川上へは登らず、諸商品も伝馬船で運ぶような次第であり、問屋どもは難儀していた(「三国湊御用留帳」)。寛政三年六月には、三国湊への入船が当年はいたって少なく、船問屋・諸商人が難儀している、天候も悪いので米価が上がりそうな気配であり天明三年の状況に似ているので、昨秋より沖の口差留の米穀入り方を許可してほしいと問丸と庄屋が願書を提出している。願書中にはさらに、少しでも米の入船があれば湊の「人気」もやわらぐと思う、当年はあいにく松前物の入船がなく諸商船が払底しているとも記されている(同前)。
 これらの状況は三国湊にとっては、不利なものであったが、滝谷出村にとっては自分の浦には船が繋げるので湊として発展する好機であった。実際、寛政五年には従来からの沖の口条目による三国湊の権益に対して滝谷出村から訴訟が起こされ、江戸出訴にいたっている。結果的には三国湊の権益が確認された形で内済している(「滝谷町記録」)。しかし、これが契機になって、寛政七年正月に「沖口御法度条々」が出されたと考えられる。
写真74 沖口御法度条々

写真74 沖口御法度条々

 福井藩の勘定所と三国湊の川口番所の名で出されたこの条々には、まず通行手形を持たない女を乗船させ他国へ出してはいけないという箇条に続いて、出入を制限する品物が列挙されている。他国へ出してはいけない物として、雁・鴨など鳥類、大豆、奉書、油、木実、油荏、楮、漆実、干鱈があげられている。鷹・鵜については、それぞれ鷹匠頭・鵜匠頭の改印があれば許可された。期間により制限された物に魚類があり、刺鯖は三月から五月まで、鱈・塩引鮭は六月から十一月まで、それぞれ差し留められた。石類は大きさに規定があり、それに反する石は他国へ出せなかった。それに続けて、沖の口締りのための規定が次のように記されている。
写真75 川口番所(「三国浦絵図」)

写真75 川口番所(「三国浦絵図」)

 (1)幕府の廻船が出入の節、瀬に掛かるなどの時は、役方の指図を受けそれぞれ取り計らう、繋ぎ置く時は諸商船入り交じりに繋がない、船頭・水主の用弁は廻船宿の者と小問屋どもが行き届くようにする、それ以外の者は元船へ乗り入れることはもちろん小舟・伝馬船に乗り近寄ってもいけない。
 (2)船が難破した時は早急に役向へ知らせ、不実のないように介抱する、浦手形などを頼まれたら吟味のうえ上乗船頭が差し出した書付へ証文を添えて渡す。
 (3)不時の触は問屋から諸廻船へ通達する。
 (4)抜荷物・隠物・直売・直買などをする者は吟味のうえ厳科に処す。
 (5)川口留番所下に大船・小舟とも着け、少しの荷物でも積み出さない、荷物はすべて船から揚げてはならない、川口留番所より川下に船を繋ぎ置き売買してはならない。
 (6)新保浦との間の渡舟往来は川口留番所前からする、川口留番所より下に着けない。 (7)川口留番所より下で小船に乗り川商してはならない。
 (8)川口留番所より川下への届け荷物はすべて番所前で陸揚げし持ち運ぶ、川口留番所より下に諸廻船を繋いではならない、一夜だけならば材木蔵の下に指し置く。
 (9)問屋は前々から仰せ渡されたとおり、沖の口出入の荷物は船頭・水主の荷物にいたるまで吟味する、着船次第荷物を改め書付を口銭役所・川口留番所へ提出する、出船の節も荷物・粮米等の書付を出し改めを受ける。
 (10)出入の船ともに日暮になったら一切荷物を積まない。
 (11)問屋が船から預かり蔵入の荷物を取り散らすような不埒があれば、仕置を仰せ付ける。
 (12)問屋・小問屋ともに自分の客船でない船へ乗り込む場合は、その引受けの問屋へ断る、自分の客船でない船方の者と馴れ合い、荷物を引き合い取り捌く者は吟味のうえ急度仰せ付ける。
 (13)川船持は、川筋在辺から荷物を積んで来た場合は、その数量の書付を口銭役所へ差し出し、指図を受けてから荷物を揚げる、もし諸廻船へ直に荷物を積み移すとか、諸廻船より川船へ直に積み移すことがあれば申し達し、改めを受ける。
 この法度は、内容は不明であるがこれ以前の「法度」が二月に三国湊の町人に読み聞かされたのと同様に、毎年正月二十二日に読み聞かされた(「三国湊御用留帳」)。



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