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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    一 越前における流通統制と沖の口制度
      抜荷と沖の口締り
 南条郡以北の越前の海岸には、北は浜坂・吉崎の両浦から南は大谷浦まで五二の浦がある。表102には「正保越前国絵図」(松平文庫)の各浦に記された船懸り状況を示した。大船を二艘以上繋ぐことができた浦は、坂井郡の浜坂・吉崎・安島・三国・泥原新保・和布、丹生郡の小丹生・大丹生・新保・宿・上海・下海、南条郡糠の一三か浦だけである。船懸りがないとされた浦は坂井郡で一〇か浦、丹生郡で五か浦あるが、南条郡河野・今泉両浦の記載から判断すると、この絵図がいう「船」とは「大船」のことを示しているようであり、これらの浦も米を一二〇石から一三〇石積むような小舟は繋ぐことができたと思われる。したがって、各浦々に出入りする物資を取り締まることは大変な困難をともなう。大樟・小樟の大野藩領に加えて、貞享の半知以後に幕府領となった浦々もあり、取締りはなかなか徹底しなかった。中でも丹生郡にあった大野藩西方領を通り四ケ浦(大樟・小樟・宿・新保)へ出るルートは、福井藩の規制がなかなかおよばなかったようである。

表102 敦賀郡を除く越前の浦々の船懸り

表102 敦賀郡を除く越前の浦々の船懸り

 正徳四年七月には三国湊締りについて町奉行・金津奉行・郡奉行・水主頭へ家老から申渡しがあった。それには次のようなことが記されている。(1)三国の水戸口から出す荷物については問丸方へ断り、問丸一人が積荷を番人立合のもとで改め、そのうえで川口の切手を出す。(2)入船があるときはその船宿から番所と立合の者、問丸へ早速積荷の書付を差し出し改めを受ける。荷物を揚げる時は少しであっても改めの者へ断り吟味を受ける。小舟に積み替えて揚げる場合も同様。(3)他領・他国の者から荷物を預からない、もし預かる場合はその品々を改めの者へ断り吟味を受ける。(4)諸廻船が三国水戸口へ入ったら積荷の書付を取り、すぐ番所と改めの者へ断る。船から船への荷物の売買は禁止。もし売買する場合にはそれぞれの宿問屋へ断り改めの者へ知らせ、問屋・改めの者はその船に行き吟味し問屋帳面に付け売買させる。(5)宿のない船はすぐ追い出せ。(6)三国問屋・諸商人ともに禁止されている物品を内々に売買してはいけない。(7)川舟持の者も禁止されている物品を運送してはいけない。同年三月には幕府から抜荷に関する触が出ており、これをうけて川舟をも対象として出された法令である。翌五年には三国湊の問屋口銭が定められており、この時期、福井藩が流通統制のために意を払ったことがうかがえる。
 享保十三年十一月十六日には、福井藩から次のような触が出ている。自分の居浦へ勝手に船を着け「他国商物」を取り扱うことはしてはならない、その浦で入用の物で口留してない物はいいが、その他の物は三国湊あるいは河野浦へ船を着け、それぞれ取り扱えという触である(浜野源三郎家文書 資6)。この時期になぜこういう触が出されたのかは不明であるが、この触によって福井藩は「他国商物」の出入口として三国湊と河野浦を指定したともいえる。しかし翌々十五年七月には、府中(武生)の商人が河野浦を通して酒樽三三樽を出そうとしたことで、隣の今泉浦と争論が起こっている。九月には内済し、従来から今泉浦が城米を初め「諸国商物」を支配してきたことを確認している(西野次郎兵衛家文書 資6)。おそらく、福井藩は河野浦と今泉浦を同一の浦とみていたように思われる。
 また享保十四年には、丹生郡宿浦の甚右衛門が石見で鉄を買い求め、宿浦へ船を着けて織田を通り府中へ出そうとしたが、幕府領中山・勾当原の馬借に差し押さえられるという事件が起こっている。史料の文言の中に、居浦で取り揚げた生肴・塩肴・木実・紙草類・立毛は以前から道筋勝手に自分の持馬で運んでもいいが、その他の荷物は馬借に運ばせる定であるとあり(宮川源右ヱ門家文書 資6)、すべての商品が規制されたわけではないことがわかる。居浦で必要な物、居浦で取り揚げた物は自由に運べるという、いわば例外規定があったわけである。これを利用して端浦では抜荷が行われ、小規模廻船業を成り立たせていた(本節第二項)。
 次に、抜荷の実態をいくつか示そう。天明三年七月に宿浦と新保浦の棒手振三人が若狭小浜から仕入れた素麺を売り歩いていたところ、その素麺を中山・湯谷・勾当原三宿の馬借に差し押さえられるという事件があった。翌年閏正月に棒手振三人が提出した再返答書には、定法というのは船揚げした荷物の「脇道往来不仕義」であり、四ケ浦から府中へ出る八田・北山を通る「上口往来」や、樫津から末野谷・氷坂を越える「下口往来」を通る場合は該当しないとか、四ケ浦に限らず海辺の村は「舟積売買を以御年貢并渡世仕来候」ため、端浦でもその浦々限りの売買はしてもよい、馬を使うと駄賃なども過分にかかるので「手寄」の湊へ船で廻す、河野・今泉は上口往来筋なので失却なども少ないため海上順風の時を見計らってこれまでも随分廻してきたなどとある。また、村役人の後書きの文言の中には、四ケ浦は他の端浦とは違い湊と同様に荷物出入ともに差留の御定法はないともある(相木嘉雄家文書)。四ケ浦は自分の浦での他国荷物の出入を抜荷とはまったく思っていないのである。
 また、「諸事御用留抜書下書」(松平文庫)の天明六年九月十六日の条には、沖の口差留の物はもちろん御免の物といえども湊の外浦々より出入りすることは禁じているはずなのに、近頃猥りに出入りしているようなので、この度厳しく仰せ渡せとある。
 「三国湊御用留帳」の寛政五年三月の項にも、国産物を端浦から他国へ沖出しすることはかねて御制禁であるのに、紛らわしいこともあるようなので、吟味し締り方を浦々庄屋長百姓に仰せ付けた、とくに干鰯を他国船が浜方で猥りに商売しているので、三国木場町順番船持どもへその吟味を仰せ付けるという記事がみえる。
 本節第三項にも述べるように、商品流通の展開とともに小廻り船が各所に出入りし、間道を通って商品が輸送されるようになってきたのである。このような事態に領主側も対処せざるをえなくなった。



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