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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    一 越前における流通統制と沖の口制度
      問屋口銭
 福井藩は津留という形で流通制限を行うとともに、湊を出入りする諸商品について口銭を徴収し、問屋の収入に充てるとともに一部は藩に納めさせた。敦賀の問屋替米と問屋場米については『通史編3』第四章第二節に述べたので、ここでは三国の場合について述べる。
 まず、元禄十年三月十二日の「宛銀御定書付」(内田文書)によれば三国での宛銀は次のようであった。(1)他国米は俵に高下があるので、三国へ入った分は納四斗につき宛銀二分ずつのうち、一分は米の売主、一分は買主から取る。ただし、雑穀については銀高に応じて取る。米宿は前々のように仕庭帳をつける。米の員数により宛銀二分ずつのうち、一分は米宿、残る一分は米値段を吟味する立会の者が差別なく取る。(2)米雑穀の値段については、五人の年寄のほかに田名辺用左衛門・松屋庄兵衛・江波与三右衛門・平野屋半右衛門が加わり、敦賀の相場を聞き合わせて一俵につき銀五、六分も高く定める。(3)越前の者が他国で米雑穀を買ってきて、三国へ入り直ちに福井へ通っていく場合は宛を取らない。三国の蔵に入れる時は定のとおり蔵敷だけを取る。商売にしない米は宛を取らない。本文はここまでであるが、日付・差出人に続けて、(4)他国から米雑穀を三国その他の津々へ入れる舟の運上は、当年は赦免されたので留意することが加えられている。当時問丸の人数は五人であるので、五人の年寄は問丸のことを指すものと思われ、米や雑穀が入津し売買された場合には手数料が徴収されたことがわかる。
 続いて正徳元年(一七一一)には、問丸が給銀などもなく難儀したので、三国へ他国から入津し売買される塩、塩魚・干魚について、これまでは船宿が船頭方から二分ずつ口銭を取ってきたが、一分増しにして、その一分を問丸五人が取ることを願い出て許可された。この「塩并四十物口銭御定問屋証文」(内田文書)には江波与三右衛門ほか合計五七人の問屋が連署している。
 正徳五年五月には福井藩勘定所から「御口銭御定書」(内田文書)が出された。それによれば、三国湊に入津する諸材木・竹は銀高より三分、米・雑穀、鉄類、塩、四十物、茶、薪類、昆布、楮、油草類、瀬戸物などは銀高より二分、繰綿・木綿は銀高より一分の口銭を取ることが定められた。また、三国より積み出す荷物についても、菜種・石類は銀高より二分、酒樽・醤油樽一樽、米・雑穀類一俵、塩一俵、四十物類一箇、茶・煙草など一箇、木綿・繰綿・布古手類一箇、鉄銅類一束、昆布一箇につきそれぞれ二分、材木類は正木一挺につき一分、その他俵・箇物は一品につき二分ずつの口銭を取ることが決められた。出入いずれも口銭は問丸が問屋方から取り、毎月十日に福井藩の勘定所に納入することも翌月の通達の中にみえる(同前)。これが、三国湊の口銭の始まりとされている(『片聾記』)。なお、この定は対岸の泥原新保浦にも適用され、新保浦の組頭が荷物を改め、口銭を取り三国問丸へ差し出すこととされた。その後、宝暦五年(一七五五)に口銭の対象となる物品と口銭が改定され、文化(一八〇四〜一八)年間にも改定があったようである(「三国湊問丸役中手扣」「越前史料」)。
 当初は口銭改めのために立会役人が置かれていたが、延享二年(一七四五)に廃止され、問丸だけが改めることになった。また、出入ともに問屋と船頭から差紙目録を口銭役所と口留番所へ一通ずつ差し出すことになっていたが、忙しい時に両所へ出すのは難儀だということで、享保二年から入船の場合だけ両所へ出し、出船の場合は口銭立会役人が差紙を改めて口留番所へ回すように改められた。これも延享二年からは問丸が差紙を改めるようになった(内田文書)。口銭改役人は廃されたが口銭役所は存続しており、安永七年から寛政三年頃の「三国浦絵図」(三国町郷土資料館文書)では、唯称寺の隣にあった代官屋敷の向かいに「御口銭役所」がある。万延元年(一八六〇)には名称が運上会所と改められた。これにともない、口銭も運上と改められ、十一月に「入船諸商物運上定」「沖口出諸商物運上定」が出されている(「三国湊問丸日記補遺」「越前史料」)。
写真73 口銭役所(「三国浦絵図」)

写真73 口銭役所(「三国浦絵図」)

 「三国湊記録(支配人日記)」(「越前史料」)天保九年の記事によれば、口銭は毎月八日に問丸が取り立て、支配人月番が受け取り、翌九日に飛脚で福井の勘定所へ届けていた。しかし、飛脚では途中で事故にあう危険性もあるので、安政五年冬の分を初めて為替で送り、翌年七月には今後も為替で送ることを許可してほしいとの願書を提出している。口銭の額については、『通史編3』第四章第二節に享保十八年・十九年の米の売買高とともに掲げた。福井藩に納入された年額は、享和二年(一八〇二)の「御本払御積帳」(松平文庫)によれば一〇〇〇両、「三ケ年平均本立帳」によれば天保五年から七年までの平均が九八七両余、弘化元年(一八四四)の「本払帳」では銀一二一貫匁余であり、安政元年の「本立入用凡積」では一五〇二両が見積もられている。



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