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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    一 越前における流通統制と沖の口制度
      津留
 特定の物資を他国へ移出したり他国から移入したりすることを制限することを津留という。寛文八年の幕府からの津留に関する質問に対する福井藩の回答は次のようであった(「家譜」)。(1)米雑穀は他国へ出すが、領内不足の節は他国よりも入れる。(2)蝋・漆・油木実は他国へ出すが、領内不足の節は留める。(3)塩は他国へ出さず、領内不足の節は他国より入れる。(4)大豆は領内不足なので出さず、他国より入れる。(5)鮭・鱒・鱈は領内払底の節は出さない。(6)糸・麻・綿のほか少分の物はとくに定めはない。したがって、塩・大豆を他国へ出すことは常に禁止されていたことがわかる。津留には、このように常に禁止されていた物と、不作や不漁で不足する場合に禁止されたりする物とがあった。
 三国では川口番所(川口留番所)で津留を取り締まった。ここには、福井藩から組の者二人、御長柄の者・荒子など大勢が、三国湊から問丸・庄屋・川目付が詰めており、昼夜とも舟に乗り改めていた。享保七年(一七二二)四月十六日にこれが改定され、湊側の派遣人に変更はなかったが、万物改仲一一人が舟に乗って改めることになったため、藩からは組の者・御長柄だけが派遣され荒子など大勢の派遣は廃止された(「御家老中御用留抜集」)。いずれにしても下級役人と湊の役人とが番所に詰めて事務をとった。

表101 「三国湊御用留帳」にみる津留

表101 「三国湊御用留帳」にみる津留

 次に津留の実際を紹介しよう。表101は「三国湊御用留帳」(浅田家文書)から抜き出した津留の記事である。米穀に関するものが多いが、笏谷石、菜種、楮、菜種油・綿実油などの油類などに関する記事もみえる。常に禁止されていた大豆も豊作だった寛政四年に新規に津出が認められ、十二年からは定値段以下なら増し口銭を出せばいつでも津出できるようになった。このように津留の多くは、笏谷石を除き、国内でのその物資の流通量が少なくなり値段が高くなった時に行われた。
 また、三国湊での津留は福井藩領だけでなく幕府領や他藩領の米穀などにも適用されたため、他藩領でも三国沖の口の津留には関心をもたないわけにはいかなかった。例えば「大野町年寄用留」(斎藤寿々子家文書)には、安永九年(一七八〇)九月二十六日「三国沖ノ口米穀共入候を留」とか、天明五年(一七八五)四月十八日「来ル廿三日より三国湊沖之口明」、寛政十二年九月二十六日「三国湊米穀入船御免」などの記事がみえる。
 津留はまた、年貢金納の村々に影響を与えた。元禄十五年には、幕府領南条郡山中領の村々が換金のため年貢米を他国へ出そうとしたが、津留のため出せず、幕府代官の判鑑をとって出そうとした。これに対して福井藩は、越前で米が高値の時は上方筋などはさらに高値であり、津出したいと考えている者が多く、たとえ幕府代官の判鑑があろうとも、例外を認めるわけにはいかないと断っている(「家譜」)。このようなことは幕末にも問題になっており、安政二年(一八五五)五月にも幕府領村々の年貢米の津出は認められなかったようである(山本喜平家文書 資5)。



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