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 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    一 越前における流通統制と沖の口制度
      三国湊の整備
 福井藩は三国湊に対して沖の口制度を制定するとともに、湊の整備をすすめ、物資輸送の円滑化を図った。同湊のすぐ上流で竹田川が九頭竜川に合流していたため、水流が対岸に比べて弱く砂が堆積しやすかった。砂が堆積すると水深が浅くなるため、大船が出入りしにくくなり、港湾としての機能が著しく低下する。このため、対岸の泥原新保浦字潅頂寺に長さ約一〇〇間の堰堤を設け、水流を三国湊側に迂回させ砂が堆積しにくいようにした。これを懽頂寺刎枠と呼び、寛永九年に造られたものだといわれる(久末重松家文書)。しかし、これは根本的な解決策ではなく、砂の堆積はその後も続いた。
 また、九頭竜川は新保浦から三国の木場町までの川幅が二三〇間余もあったのに対して、河口つまり三国湊へ海から入る水戸口の幅は三五間しかなかった。あたかも、口のすぼまった銚子から酒を注ぐようなものだということで、水戸口のことを銚子口とも称している。そのため、元禄十年(一六九七)十月には幕府領安島浦から同浦に築港するよう舟寄陣屋に願書が出されている。願書によれば、三国湊の水深は五、六尺しかないため、三、四百石積より大きな船は入津できず、艀での積み下ろしに手間がかかるような状態であった。一方、安島浦には大船が三、四百艘も停泊できるような入江があり、ここに築港したいとの願いであった。翌十一年一月築港は不許可の裁決が出たが、この一件は三国湊に対してかなりの危機感を持たせた。そして、少しでも入船をしやすくするために水戸教船が設置された。元禄十年十月二十五日に三国湊の室屋惣次郎が願い出て許可され(「家譜」)、翌年設置されたものである。水戸口の両側に一艘ずつ船を配置し夜には火をともして、入船するための航路を教えた。これに要する経費は、「御家老中御用留抜集」(松平文庫)によれば入る船の乗組員一人につき一〇銭ずつ、「町内治定改方記録」(「越前史料」)によれば一人三分ずつ徴収する案内賃を充てた。なお『片聾記』によれば、これの設置が元禄十三年とされているが、許可されたのが十年十月であり、設置にそれほど時間がかかるとも思われないので、誤りであると思われる。
 福井藩は、廻米のため寛永十四年に領内惣浦方の漁船に城米を積むように命じたが、惣浦方にとってはかなりの損失であったため、越前岬から加賀境までの浦方の漁船に限定してほしいとの願書が提出された。その結果、三国・泥原新保・三国宿・米ケ脇・崎の五か浦の船が、商人荷物を積む得分の奉公として運賃の安い城米を順番(輪番)に積むことになった。しかし、北国筋からの上り荷物が減少したため、寛文四年(一六六四)には城米を積む船が四〇艘余に減少し、輪番も崩れた。そこで、城米運賃が増額され、荷物も増えたため延宝四年(一六七六)には一二〇艘に増加している。また元禄五年の三国湊の「問丸由緒書之事」(『三国町史』)には、森田弥五右衛門が支配する「羽海船」仲間の者が諸運賃を高くとるので、諸荷物が手支え湊が衰微するとして三国湊は従来の運賃に戻すように願い出、森田が篭舎となり三国湊の主張がとおったことが記されている。これらから、廻米のための廻船を確保するために運賃を増額したり、三国湊を保護するなどの福井藩の政策がうかがえる。



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