目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 商品の生産と流通
   第三節 日本海海運と越前・若狭
    二 西廻海運の展開と越前・若狭
      西廻航路の整備と日本海海運
(準備中)

写真76 敦賀湊へ船荷を陸揚げする光景(「敦賀八景」)

 近世における日本海海運で、一つの画期とみなされているのは寛文十二年(一六七二)の河村瑞賢による西廻航路の整備である。瑞賢による港湾整備などにより西廻海運の安全性は向上して流通量は増加し、これを機に日本海海運は西廻海運の一部に包摂され、中央市場大坂を中心とする近世的な流通構造がここに完成されたという。
 それまでの近世初期の日本海海運は、上方市場京・大津へ至る流通ルートの中継商業都市であった敦賀・小浜湊を拠点に、日本海沿岸を北へ、あるいは西へと伸びていた。この流通ルートを通じて、日本海沿岸諸藩の領主は必要な軍需品その他の非自給物資を得たり、年貢諸物資の換金を行った。この流通構造は単層のものではなく、日本海沿岸地域と敦賀・小浜湊との間の長距離を結んだ北国海運と、近距離間を結んだ地廻り海運に担い手が分かれ、例えば、兵粮米や軍需品あるいは建設資材などを長距離輸送する場合には大船である「北国船」などで、三国湊から敦賀湊までの近距離の年貢米輸送ならば地廻り海運を主体としていた。
 西廻航路の整備とそれにともなう上方船の進出は、こうした従来の日本海海運に大きな変化をもたらした。それは、西廻海運という新流通ルートを組み込んだ新たな日本海の流通構造の成立として表れ、既存の流通ルートで輸送に従事していた廻船業者に対して、新たな日本海の流通構造への適応を迫るものであった。



目次へ  前ページへ  次ページへ