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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    五 様々な特産物
      砥石
 足羽郡浄教寺村の南部の山地から出る浄教寺砥石は著名で、江戸初期の越前の主要な産物三五品種の中にあげられているが(『国事叢記』)、いつ頃から切り出されたかは不明である。伝承によれば、戦国時代朝倉氏の家臣が発見したという(『福井県足羽郡誌』)。「越前地理便覧」にも、砥石山が足羽郡浄教寺村にあると記されている。『和漢三才図会』には、「刀剣砥は三州名倉の産を最上とし、山州嵯峨の内曇がこれに次ぎ、越前常慶寺(浄教寺)村の砥石が亦是れに次ぐ」とあって、全国的にも優れた産地として知られていたのである。「越藩拾遺録」にも、「砥石 足羽郡浄教寺村ヨリ出テ天下ニ通ズ」とあるが、その産額や生産の実態は明らかでない。
 福井藩は、砥山役銀として四三匁、砥山運上として金一〇両を、宝永元年以降取り立てているが(「領分成箇帳」松平文庫)、おそらく浄教寺村の砥石仲間が納めたものと考えられる。浄教寺砥石は次第に山深くから掘り出されるようになり、土砂・岩石の崩壊が激しく、生産量が減少し、十八世紀後半からは南に隣接する今立郡寺中村の寺中砥を初めとして、足羽郡小和清水村、今立郡志津原村などの砥石が販路を広げるようになった。
 寺中砥もいつ頃から採掘されたかは判明しないが、貞享二年の「越前地理指南」に「東ニ砥石山アリ 足羽ノ浄慶寺(浄教寺)山続キ」とあり、幕府領時代の正徳二年には西鯖江役所に運上銀三〇匁を上納し、小浜藩領時代にも引き続き納めている。寛政十一年の「村方出入ニ付願書」(宮川九兵衛家文書 資5)によると、同村では、初め次郎右衛門砥石間歩から切り出していたが、以後数人が元締を交替して間歩を経営した。文政六年には、九兵衛が請主、新左衛門が請人となり、持山の百姓一七人から借り請け、毎年一一両二歩を砥石山外字し代金として支払っている。『越前国名蹟考』には「当村の方は軟にして、浄教寺砥は硬しと云」とある。寺中砥は昭和初期まで切り出されていた。



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