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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    五 様々な特産物
      越前焼
(準備中)

写真72 越前舟徳利(19世紀)

 越前焼は広義では敦賀郡以北の越前の陶器をいうが、ここでは、丹生郡織田村・宮崎村・朝日村を中心とする地域に古代末期から焼成された陶器を指す。古越前・織田焼とも呼ばれた。平等村で主に焼成され、その製品は壺・甕・摺鉢のほか茶壺・蛸壺・徳利・火鉢・片口・おろし皿・水盤・こね鉢など、主に日用雑器類を注文に応じて製作した(『通史編2』第五章第一節)。近世においては、貞享二年の「越前地理便覧」に「瓶焼山 丹生郡平等村ニ有 織田瓶ト云」と記されるほどであった。
 平等村は隣村の下河原村から原料の瓶土を取っていた。万治元年の両村の出入済口証文(友広支己家文書 資5)によると、下河原村持分の毘沙門山の青土を、三〇年以前から平等村が陶土として取り出し相応の礼物を出してきたが、近年から摺鉢一〇束を下河原村内の矢蔵佐衛門に渡すようになり今後も続け、また、白土のある土屋野、青土のある奥の野は両村の入会地なので、平等村は土を、下河原村は草柴を従来どおり取ることを約束している。
 元禄十六年の「樫津組村々大差出帳」(田中甚助家文書)には、平等村について次のような記述がある。一、平等村は元来地味が悪いので、昔より瓶焼きの職にも従事していた。田畑耕作のかたわら土を掘り置き、盆前後から瓶焼きの作業に取り掛かり十月まで焼き出した。燃料の木柴等は平等村内の山では不足するので、他領にて薪を買い付けて焼き、浦方・府中・福井その外在辺へ売り払った。一、瓶土取場は下河原村との入会地である毘沙門・青土屋野・白土屋野の三か所で、お礼として毎年小摺鉢一〇束を下河原村に渡している。一、焼窯の「火蓋」にする口石は丹生郡岩倉村の山から取ってきた。お礼として瓶を渡している。
 なお、当時平等村は瓶役銀として四〇匁を高森藩に毎年納めていた。
 寛保元年頃には平等村の陶器製造者はおよそ村の半数の二四戸あったといわれ(『丹生郡誌』)、壺・火鉢・平鉢・甕など実用品を作っていた。越前海岸に近いので、これらの製品は、峠を越えて厨や道口に運ばれ、船積みされて敦賀や三国、遠くは能登方面に販売された。



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