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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    五 様々な特産物
      笏谷石
写真71 石谷山(「享保10年越前図絵図」)

写真71 石谷山(「享保10年越前図絵図」)

 福井城下南西の足羽山(石谷山)の小山谷・加茂河原・山奥の三か村の地籍より産出する青緑色の凝灰岩は、笏谷石・越前石・福井石・木田石などと呼ばれた。『越前国名蹟考』に「石谷山切石間歩当国の名石なり、壁・橋・柱・樋・火器・水道・仏像・塔・墓皆此れを用う」とあるように、越前の特産物の一つで古墳時代から現代まで幅広く使用されてきた。中世の記年銘がある笏谷石製の遺物としては、福井市本堂町高尾神社の正応三年(一二九〇・)の七重塔、丹生郡朝日町大谷寺の元亨三年(一三二三)の九重塔や、福井市一乗谷の三〇〇〇点余りの石仏・石塔などが著名である。また、県外では大津市坂本西教寺の天文十九年(一五五〇)の地蔵像、大津市聖衆来迎寺の文禄四年(一五九五)の五輪塔などが笏谷石製として知られている。
 結城秀康は、足羽山の石間歩の権利を本多大蔵等上級武士八人に与えている(『片聾記』)。切り出された石は河戸で石積船に乗せ足羽川・九頭竜川を下り三国湊から全国各地にも運ばれた。慶長十六年銘の石鳥居が山形県鶴岡市椙尾神社にあり、青森県下北半島には現在判明しているものだけでも、むつ市田名部の恐山円通寺墓地の寛永四年の五輪塔を初めとして元禄七年までの約七〇年間の地蔵像・石塔・石室・笠塔婆・石鳥居など二〇基ほどが確認されており、北海道松前町には、町内の一〇か所に江戸初期から中期にかけての笏谷石の墓約四六〇基がある。
 十七世紀後半に西廻航路が整備されると、北へ向かう船のバラストを兼ねて多くの笏谷石が運ばれ、宗教や信仰に使用する石材としてだけでなく、土木・建築用の一般商品として規格化されて販売された。遠くは函館・江差・小樽などに、石廟・石塔・石仏のほか石蔵・鬼瓦・石段・地覆石・井戸枠・流しなどが遺されており、青森県から石川県にかけても多岐にわたる製品がみられる。寛保三年の「越藩拾遺録」には、笏谷石は江戸・仙台・九州まで通用したと記されており、今後調査が進むにつれて、日本海沿岸を中心にその分布が広がるものと思われる。
 万治二年(一六五九)には福井藩内に間歩持を許可された石屋が二四人いた(木戸市右衛門家文書)。天明二年には二八人に増え、石の販売については、三国の布目屋を含む三軒の石問屋に限ることなどを定めた「仲間定法之事」を取り極めている。以後幕末まで二十数名の間歩持の石屋が組を組織して、石の採掘・運送を管理し、三国湊の石問屋との販売の交渉に当たった。福井藩は寛政七年「沖ノ口法度条々」の中で石の規格寸法を定め、幅と厚さは石の使用目的によって異なるが、長さは三尺から一尺八寸までの四種とした(布目屋三左衛門家文書)。
 笏谷石の採掘法には露天掘りと坑内掘りとがあり、坑内掘りには横穴式と縦穴式とがあった。近世においては、ほとんどが横穴式であり、地下へ次第に切り進み浸水を汲み出しきれなくなると、その石切り場は廃坑とされた。
 近世の笏谷石の生産量は不明であるが、その量は膨大であったと思われる。先に記したもの以外にも灯篭・鳥居・狛犬・墓石などの信仰上の物、石壁・石瓦・敷石・石垣・橋脚・石樋や、民家の生活用品としての火鉢・ばんどこ(火箱)・風炉・大鉢など実に多彩な製品の素材として使用されていた。近代工業が勃興しセメントが普及するまで笏谷石の採掘は盛況であった。



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