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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    五 様々な特産物
      桐油
 桐油は落葉高木の油桐の果実の種子から搾油する。油桐は温暖で山地の多い若狭や越前の南部海岸地方で多く自生し、栽培もされた。近世若狭・越前は全国屈指の桐油の産地で、灯火用や雨合羽・唐傘・桐油障子紙・油団等の塗料として、江戸・名古屋・大坂その他各地に販売された。
写真70 ころび搗き

写真70 ころび搗き

 若狭では油桐の実を「ころび」と呼んだ。丸い実が傾斜の多い山地でよく転ぶことに由来している。正保二年刊の『毛吹草』の若狭の項では、まだ桐油は名物としては記されていないが、近江の項には「海津ノ油木」があげられている。小浜藩主酒井忠勝が承応二年に「桐之木」の植付けを領内に命じてから(「酒井忠勝書下」)、「海津ノ油木」などを移植し若狭での収穫が増大したものと思われる。「ころび」は延宝三年三方郡日向村の「三年季請山証文」(渡辺六郎右衛門家文書)、「油実」は寛文十年遠敷郡本保村の「八郎大夫不埒之儀ニ付差上覚」(清水三郎右衛門家文書)が初出である。宝永(一七〇四〜一一)・享保期には江戸・名古屋・大坂等全国に販路を持つほどに、「若狭油」は著名になった。
 明和四年成立の『稚狭考』に、桐油は小浜第一の家業なり、寛永家業記に油屋二十九人、天和家業記に三十五人、此後他邦へ売出すに付て百家に及ひ、在々所々七八十家、今に到りて二百家に余れり、京・江戸・佐渡・大坂・美濃・尾張にては、種油に交へ売て桐油の名を用いす……此の油をしほ(搾)る事、小浜より巧者なる所諸国になしといへり……油桐の実六斗を一包とす、本国の山野出ささる所なし、出雲・石見・越前・但馬・丹後より来る事夥し、とあり、十八世紀中期の若狭油の全盛期の様子が知られる。寛文期に小浜・敦賀で行われていた蝋〆の技術が、桐油搾りに転用されたのである。
 越前での油木の記述は、足羽郡二上村・今立郡片山村・敦賀郡大比田浦の慶長三年の検地帳に見られる。まだ栽培は普及していなかったと思われるが、二上村には五二本の油木があったとあり、他の村に比べて多いので、同村ではすでに栽培が行われていたのかもしれない。また、大比田浦は「高之外小物成」の「油えノ代たも拾石之分」を米三石三斗三升三合で納めている(中山正彌家文書)。
 前出の『毛吹草』の越前の項には、「ダマの油木」とあり、油桐は少なく「ダモノ木」が名物であったと思われる。享保二十年幕府が命じて作成させた諸国物産調の一つである「越前国福井領産物」(松平文庫)によれば、当時は油木に「油木・こせ(ニセか)油木」の二種があったようである。
 比較的温暖な丹生・今立両郡については、先に述べた貞享二年の丹生郡樫津村の「田中甚助書置」にも木の実すなわち油木の栽培のことが記されており、正徳二年(一七一二)丹生郡米ノ浦の「田畠等割取定書」(玉村文書)にも「以後、田畠共ニ樹木・桑・楮・木之実・漆木等、此外夫々ノ植木仕、御納所当ニ茂可仕候」と木の実がみえる。また、この両郡の村明細帳のうち、貞享四年の丹生郡横根村の明細帳に「畠二反歩ほどに油木があるが植え付けたものではない」(青山五平家文書 資6)、享保六年の今立郡荒谷村のものに「油木は畠の内に少々植えてあるが、村で使用する程の油が取れないので、粟田部村から油実を買い入れ搾っている」(河端五右衛門家文書)、同年の丹生郡下大虫村のものに「油木は少々ある、売買は五斗入り一俵について八匁より一五匁までの相場である」(竹本治左衛門家文書)、宝暦十年同郡片屋村のものに「油実は一か年に村中で二石ほど採れ、値段は油実五斗五升入り一俵で銀一五匁より二三匁までである」(三好与治兵衛家文書)とある。しかし、越前は若狭に比べて桐油の生産は少なかった。
 油木の栽培は次第に盛んになり、天明四年に南条郡今泉浦では油実二〇俵を質にして、銀三〇〇匁を同郡湯谷村孫右衛門から借りるなどのこともあり(加藤良樹家文書)、今立郡余川村では、油木畑を持たない百姓は生活上不便が多いので、寛政三年に一軒当たり二〇〇歩ずつ油木を植える場所を村の共有地から受け取ることを決めている(渋谷儀右衛門家旧蔵文書)。嶺北の油実は敦賀などに送られていたが、近世中頃から嶺北でも、油実を搾って桐油を採る油屋も多くなり、府中札之辻(大黒町)の油屋宇兵衛は、今立郡小坂村の弥右衛門から木の実二〇俵を受け取り、代銀八貫九〇〇匁の内銀一貫匁を支払っている(藤井精治家文書)。

表100 足羽県の油木実生産高

表100 足羽県の油木実生産高

 十八世紀中頃、油実は石見から越前に至る日本海側の産地から、小浜や敦賀に集荷され搾油して他地域に移出された。十九世紀末までの若狭・越前の油実の生産額は全国で屈指のものであった。表100は明治五年の「足羽県地理誌」から油実の生産高を示したもので、総額は三五三九石である。若狭の村々の生産高は不明であるが、同六年の敦賀県の油実の生産高は二万一三〇一石である(「敦賀県治一覧表」)。この両者の差額一万七七六二石は、おおむね当時の若狭三郡および越前の敦賀・南条・今立三郡の生産高を示すものと考えられ、嶺南地域が主産地であったことを確認できるのである。なお、桐実一石から桐油はおよそ一斗五升ほど採れるとして、当時の敦賀県の桐油の生産高はおよそ三〇〇〇石ほどと推定できる。



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