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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    四 木地師と漆
      漆掻き
 山野に自生する漆の樹液を採集する職人を漆掻きといい、越前では今立郡にその職人が多かった。鯖江藩が成立して三年後の享保八年の「今立郡卯郷帳」(斎藤勘右衛門家文書)には、鯖江藩が支配する今立郡の村々の漆役が記されている(表98)。これによると、大屋組二八か村の内一九か村、中戸口組二二か村の内六か村、広瀬組三七か村の内二一か村から漆掻きの小物成として永四貫四七四文余、米二石一斗一升余が納められている。一村当たりの漆役は少額であるが、農間余業として大勢の百姓が、漆木を求めて各地の山野に入り込んでいたことをうかがうことができる。この頃今立郡池田村には、山漆と掻漆があり、掻漆は苗木を植えて栽培し漆液を採集したり、実を採って販売したりしており、これらの収入は山手として小物成の対象になっていた(岡文雄家文書)。
 天保三年には、鯖江藩領東庄境組(以前の中戸口組)と庄田組(以前の大屋組)の内三二か村から四八〇人が漆掻きの他国稼ぎに出ており、冥加金として一人当たり銀五匁(山室村のみ三匁三分余)合わせて三九両三分を上納している。嘉永三年(一八五〇)には東庄境組朽飯村の忠七は漆稼免許の御礼として、金二〇両を鯖江藩に献納している(『間部家文書』)。安政元年(一八五四)今立郡東庄境村では三六人が漆掻きとして主に関東に出ていた(小林弥平家文書)。また、文久(一八六一〜六四)年間には同郡服部谷・水間谷に居住していた七〇〇軒のうち三五八軒が漆掻きの職に従事しており、一軒当たり米八俵の収入を得ていた(『服間村是』)。
 集められた漆液の量や販売先はよくわからないが、享保二年には今立郡莇生田村の次郎兵衛が京都の丹後屋嘉兵衛に一〇両の前金で、また同五年には朽飯村の庄左衛門も同人に三〇両で漆を売っている(『鯖江市史』通史編上巻)。文政四年には同郡清水町村の八郎右衛門が、漆掻業者から漆を買い集めて信濃飯田で漆問屋に金二〇両二歩余で売買している(宮川九兵衛家文書 資5)。これ以外にも地元の片山村などに売られた漆液も多かったものと思われる。明治初年の越前における漆の生産は、今立郡が最も多く、大野郡、丹生郡がこれに次いでいた(「足羽県地理誌」)。

表98 鯖江藩領の漆役(1723年)

表98 鯖江藩領の漆役(1723年)




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