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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    四 木地師と漆
      越前・若狭の漆
 三方郡三方町の鳥浜貝塚から漆塗りの容器や櫛が発見されるなど、漆の使用は縄文期に遡る。「延喜式」には北陸・山陰地方に漆の生産が多いと記されている。近世にいたって、漆は茶・楮・桑とともに四木として重視され、福井藩では山奉行がそれらを支配した。また、漆は小物成または浮役の対象とされた。
 慶長三年の今立郡片山村の検地帳には、田・畠・屋敷合わせて五町三反八畝に漆木一六三本が記され(山岸善四郎家文書)、同郡野岡山室村の検地帳には漆木が四〇二本記されている(古川木戸兵衛家文書)。この地域の漆の生産が、少なくとも中世末から盛んであったことの傍証といえよう。また、同郡河和田地区では、付近の山地で木地を荒挽きして椀や鉢などにしたものを仕上げて、片山椀と称して販売していた。享保六年の「今立郡片山村明細帳」(山岸善四郎家文書)には「当村は古来より作間稼に塗師細工を仕、男女共夫々の塗師方仕候」と記されている。近世初期頃から渋下地を工夫し朱塗の技法を取り入れ、近世末期には京都や輪島から蒔絵や沈金の新技術を習ってさらに生産が増加した。
 また、福井藩では漆増産のため元文三年(一七三八)に、高須山西部の宮郷山に畑一〇二町を開発し漆苗一〇万余本を植えている(『続片聾記』)。
 若狭小浜も漆器の産地として有名である。承応二年(一六五三)小浜藩主酒井忠勝は、若狭塗の創始者といわれる塗師三十郎を木地師とともに江戸に呼び出し、七か月滞在させ、五年後の万治元年(一六五八)には三十郎に扶持米を与えている(酒井家文書)。元禄六年頃成立の「若狭郡県志」に、小浜には彩漆の技術を用いる塗師がいて、その技術は氷塗・鶏卵塗・魚子塗・鼈甲塗など十数種に及ぶことが記されている。その後、三十郎家は絶え、門弟の西脇家など数家がこの技術を伝え、若狭塗は名産として諸国に聞こえたという(『稚狭考』)。文政元年には江戸城西丸の家慶(後の十二代将軍)と御三家からも注文があったほど若狭塗は著名になっていた(「諸事覚日記」古河家文書)。



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