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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    四 木地師と漆
      丹生・今立郡の木地師
 丹生・今立郡の木地師 丹生郡では越知山を中心にして木地師が多かった。慶長三年(一五九八)八月の大谷寺教蔵坊・才勝坊宛の長束正家書状(越知神社文書 資5)によれば、越知山の用木を濫りに伐採することを禁止し、木地挽の者も違背しないようにと申し付けている。江戸前期に米ノ浦から分村した六呂師村は、「元禄郷帳」では村高二二石余、山腹急崖の段丘上に位置する小村であるが、周辺のケヤキ材を目ざして轆轤師集団が移住してつくった村である(『越前町史』)。
 今立郡鞍谷周辺は鞍谷轆轤師が活動した地域である。永禄二年(一五五九)鞍谷轆轤中に宛てた朝倉一乗谷奉行人朝倉景連等四人の連署状によると、鞍谷轆轤師は正安三年(一三〇一)の院宣を所持し、府中総社の二度の諸役を怠らないので、他国の同業者の入ることを禁じ、先規によりその特権を認められている。天正八年三月の「正親町天皇綸旨写」にある「越前州今南東郡吉河鞍谷大同丸保塗師屋・轆轤方」の吉河鞍谷大同丸保は、余川村・蓑脇村・入谷村のことであり、左大弁広橋兼勝が越前左史に鞍谷轆轤師の諸役免除を命じたものである(大河内区有文書 資6)。
 また、今立郡池田郷の稗田川に沿った大本村とその上流の篭掛・稗田・西青・東青・蒲沢・尾緩周辺の深い山地には、近世以前から木地師が入り込んでいた。寛永十五年(一六三八)には大本村が開いた畑を周辺の木地師が請作していることが知られる(田中作右衛門家文書 資6)。延宝五年(一六七七)に福井藩より山方条目が出され、竹木の伐採や村境の規定が定められ、翌六年には郡奉行と山奉行によって大本村の村境が決定され、篭掛・稗田・西青・東青・蒲沢の五か村は新田村として独立した(同前)。
 正徳三年(一七一三)には木地山手銀一四三匁を大本・篭掛・稗田・西青の四か村が納めている。この頃は木地挽には従事していないが、四か村は部子山白谷を入会山として利用しているので木地山手銀として納めているというのである(山本仁輔家文書)。延享元年(一七四四)の「大本村明細帳」によると、近くの篭掛村には木地師はいなくなったと記されている。約六〇年後の享和二年(一八〇二)には、再び篭掛村の木地師が大本村の山で木地挽をしたいと願い出た。そこで、本保役所は大本村に支障がないかどうか尋ねたところ、以前に残り木を川筋に放置して洪水を起こしたことがあるので、大本村としてはやめてほしいと答えたため、役所は篭掛村を説得しこの願いは容れられなかった(田中作右衛門家文書 資6)。しかし、五年後の文化四年には山境と木地挽をめぐって両村の間で争論が起こり、本保村の割元輔八の仲裁で翌五年四月限りに木地挽をやめることで解決した。ところが、五年の五月になっても木地挽をやめないため再び大本村から訴訟が起こされ、郷宿紙屋門兵衛と勝山屋官蔵の仲裁で五月限りに木地挽をやめることで内済が成立している(田中作右衛門家文書)。



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