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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    四 木地師と漆
      大野郡の木地師
 大野郡は中世にも木地師が多く、永享十二年(一四四〇)大野郡小山庄下穴馬領家方では、年貢として銭三貫三〇〇文のほかに木地物の折敷・台・杓等を納めている(天理図書館所蔵保井家古文書 資2)。近世の氏子狩帳には、大野郡穴馬・五箇・西谷の木地師の名が記載されており(表96)、木地製品は大野・勝山の町や加賀の山中、今立郡河和田の漆器産地へ運ばれた。経ケ岳・法恩寺山山麓も木地師の活動した地域であった。南麓の雲乗寺(大野市南六呂師)には、「大野郡轆轤師」「野津俣門徒」と釈実如によって文亀二年(一五〇二)に記された裏書のある「方便法身尊影(阿弥陀如来像)」がある。また北麓の六呂師村(勝山市北谷町北六呂師)から杉山川沿いに加賀へ抜ける峠を木地山峠と呼び、木地製品の交易の通路であったと思われる。木地師の運上銀は、郡上藩領長野村では轆轤一挺につき、年に銀一五匁であった(古世賀男家文書 資7)。天保四年には久沢村の木地師が、木地製品を質にして大野町商人より一一〇両を借用しているなど、この地域ではまだ木地師の活動が盛んであったことがうかがえる(野村宗右ヱ門家文書 資7)。



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