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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    四 木地師と漆
      南条郡の木地師
 南条郡瀬戸村の枝村であった高倉と芋ケ平は、古くから木地師の住みついた村であった。時代は不明であるが、近江君ケ畑の木地師がこの地に入って小屋を掛け、権威筋からの朱印状を持っているとして木地挽の仕事をし、山手木地米一五石を瀬戸村に渡していたという。寛永三年枝村二か村の木地師が府中領主本多富正に訴え、木地運上銀一貫二五〇匁を毎年直接領主に納めることとし、瀬戸村の木地木を自由に伐採することを許された。その後山境のことで争論が起きたので、本多家の郡奉行から明暦二年(一六五六)に芋ケ平と、寛文九年(一六六九)に高倉と本村瀬戸村との間にそれぞれ定書が示され、山境が決められ、木地に挽く木は瀬戸村の山のものを伐ってもよいこととされた。ところが次第に木地師の者が、杪柴・材木・ころ木までも伐り取るため、貞享三年(一六八六)春、瀬戸村は本多家にその差止めを申し出た。ところがその年、福井藩は半知となって、瀬戸村は幕府領に支配替えになり、取締りが緩やかになった。これに乗じて、木地屋が我侭に山を荒らして焼畑や新畑にするので、元禄元年(一六八八)瀬戸村は勝山代官所に訴えた(伊藤助左衛門家文書 資6)。
 その後も紛争は絶えず、ついに元禄十六年瀬戸村は西鯖江代官所を通して評定所に訴えた。その結果、木地師側は牢舎入りとなって不正が糺され濫伐などがやんだ。しかし木地師は次第に山畑を求めて土着する動きをみせ、三年後の宝永三年(一七〇六)には、枝村二か村が中津田山・上野山に新畑を開くため山手米三斗五升を瀬戸村へ渡したいと西鯖江代官所へ申し出ている。享保六年(一七二一)になって、枝村二か村の木地師は、もう一四、五年も前から木を伐りつくし木地挽はしていないので、従前からの木地運上銀八〇〇匁の内五分の四を免除して、残る一六〇匁を高倉から六四匁、芋ケ平から九六匁上納させてほしいと、本保代官所を通して勘定所に伺い出ている(伊藤助左衛門家文書 資6)。
 こうして次第に木地師の仕事は減少したが、四十数年を経て木地材が豊富になったのであろうか、安永七年(一七七八)には木地師二人が瀬戸村に対し、当分の間一年に木地山手金一歩を納めるから木地挽を営みたいと願い出ており、五年後の天明三年(一七八三)にも山手銀九〇匁で木地挽を許されている。寛政五年(一七九三)には七人の木地師が、瀬戸村板野山に木地木があるので木地挽をしたいと、木地屋元締杉谷村七郎右衛門・小倉谷村又右衛門を介して瀬戸村に願い出ており、その運上銀は一人轆轤一挺分四五匁平均として合計二九五匁と定められた。また天保九年の瀬戸村の「明細書上一村限帳」(伊藤助左衛門家文書)によれば、高倉木地山手永一貫〇六七文、芋ケ平は永一貫六〇〇文と記され、近世末期まで木地挽が続けられていたことがうかがわれる。文政四年(一八二一)の「宗門人別御改帳扣」(同前)では、瀬戸村と高倉・芋ケ平合わせて家数八二軒のうち、木地師がいた高倉と芋ケ平の家数はそれぞれ一三軒、三〇軒であった。
 南条郡五箇山(大河内・岩屋谷・増谷〈升谷〉・田倉俣谷・宇津尾谷)も木地師が多かった村である。近世初期、結城秀康が越前に入封した頃は大河内・岩屋谷・升谷の三か村があることは知られていなかったが、川上から木椀が流れてきたのが契機となって木地師の住む三か村が発見されたという(『続片聾記』)。寛文十年に今庄町庄屋と五箇山の木地師との間で九か条からなる木地挽定証文を取り交わしている(『通史編3』第三章第三節)。延宝二年の福井藩から大河内村への定書によると、村高は三〇石で新焼畑は禁じられ、大河内・岩屋・升谷の木地師は田畑その他を押領することが禁止され、山境も定められた。木地師は木地を挽いて山手米八石余を納め、山畑・稗田を耕していた(大河内区有文書 資6)。



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