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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      遠敷郡金屋の鋳物師
 若狭の鋳物師は遠敷川の右岸の金屋村に居住しており、中世から鋳物業を営んでいた。「正保郷帳」では村高六五石余、元禄三年の家数は六五軒であった。京極家が若狭入封以降諸役を免除して金屋職を安堵し、酒井家は他国鋳物の国内移入を禁止する連署状を出してこれを保護している(芝田孫左衛門家文書 資9)。
 金屋鋳物師仲間は藩主の保護を受け、若狭でその製造・販売を独占した。慶長十七年鋳造の小浜市太良庄日枝神社の梵鐘に「大工下金屋九郎左衛門」の銘があり、同十九年の小浜市広峰証明寺の梵鐘も金屋鋳物師が鋳造している。
 その後、金屋村鋳物仲間の経営は苦しくなり、元禄十三年には吹屋(鋳造所)を近江栗太郡辻村の六左衛門に貸し付ける許可を奉行所に願い出ている。六左衛門は二〇年も前から小浜上市場町に鍋屋を出して鍋を売りまわっていた業者で、仲間から吹屋道具も併せて一年に銀三〇〇匁ずつ二〇年の約束で借り受けていた。仲間は六左衛門が鋳造した鍋を販売し、釣鐘を鋳た場合はその利益の半額を受け取ること、鋳造した鋤はすべて仲間が売り捌くことなどが定められていた(芝田喜左衛門家文書 資9)。
 天明三年に真継家から金屋村鋳物師仲間に出した鋳物師職座法の掟は、天正年中に定めた座法の旨を改めて申し渡したもので、その内容は公儀の法度を守り由緒のない者に鋳物師を許可しないこと、鐘の鋳造の注文を受けたら届けること、無銘の鐘を売買しないこと、年頭や八朔の嘉儀を勤めることなどである(芝田孫右衛門家文書 資9)。
 吹屋を辻村の鋳物師に貸し付けることは、近世を通じてしばしば行われたらしく、文化七年には辻村の国松政兵衛へ一か年銀四〇〇匁で一五年間預け、仲間は鋳物を国松に注文して販売することにしていた。文政十一年の「諸国鋳物師名寄記」には、芝田喜左衛門・芝田八治郎等芝田姓一八人、森吉左衛門等森姓三人、その他坪内九兵・大野九郎左衛門・武田善太夫・高田太郎左衛門等合わせて二五人の名が記されている。
 金屋鋳物師は、嘉永年間に小浜藩の命令で砲丸の鋳造に従事したが、安政六年には西津北長町の藤田安右衛門が鋳物職を預り稼業した(芝田喜左衛門家文書)。
 また、小浜では釘の生産が盛んで、寛永十七年には鍛冶職が六〇人おり、鍛冶役として一寸、二寸の釘を年に三〇〇〇本上納していた(清水三郎右衛門家文書)。また、『稚狭考』には、近年鍛冶屋が増加して小浜に約六〇人、遠敷村に一〇人、伏原村に三人、大谷口一人、谷田部村一三人、西津村四人、高浜村六人のほか、三方郡に三人の鍛冶職人がおり、その販路は丹波・丹後・京・大坂・江戸へと広がっていたとある。安政五年、各地で売り捌かれた釘鉄物は一万個であり(「若狭小浜産物類取調書上」)、元治・慶応の頃、一年平均八七五〇箇の釘が移出されていた(前『福井県史』第二冊第二編)。



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