野鍛冶は、町や村に居住して鉄製の農具や日用品の補綴・整形・鍛接・焼入れ・刃付けなどの作業に従事する職人である。農業と兼業の者が多く、数か村から十数か村に一軒はあったと思われるがその数はわからない。各地に残る村明細帳などには、鍛冶役銀を納めた鍛冶職の記述があり、役銀を納めない零細な鍛冶職を加えれば越前・若狭では数百人を数えることができよう。
今立郡池田地域の村明細帳によれば、元禄四年に板垣・松ケ谷・大本の三か村に鍛冶職がいて、それぞれ鍛冶役銀八匁四分を納めていた(内藤藤右衛門家文書)。享保六年には板垣、松ケ谷両村の鍛冶職がそれぞれ一四〇匁の鍛冶役銀を納めている(片山武治家文書)。このように五〇か村ほどある池田地域で、鍛冶役銀を納める鍛冶職が三か村におり、その地域の需要にこたえていたのである。
鯖江藩が成立して間もない享保六年の「乙坂組明細帳」(三留区有文書)、同八年の「今立郡卯郷帳」(斎藤勘右衛門家文書)によれば、この頃鍛冶役銀を納めた村は先の今立郡の二か村以外に、丹生郡の上大虫村があった。およそ一〇〇年後の文化七年の「越前国西鯖江御領分御物成郷帳」(市橋六右衛門家文書)によれば、鯖江藩領一三二か村の内鍛冶役銀を上納した村は一三か村、役永合計一貫〇〇一文余に増加している(表95)。 |