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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      野鍛冶
 野鍛冶は、町や村に居住して鉄製の農具や日用品の補綴・整形・鍛接・焼入れ・刃付けなどの作業に従事する職人である。農業と兼業の者が多く、数か村から十数か村に一軒はあったと思われるがその数はわからない。各地に残る村明細帳などには、鍛冶役銀を納めた鍛冶職の記述があり、役銀を納めない零細な鍛冶職を加えれば越前・若狭では数百人を数えることができよう。
 今立郡池田地域の村明細帳によれば、元禄四年に板垣・松ケ谷・大本の三か村に鍛冶職がいて、それぞれ鍛冶役銀八匁四分を納めていた(内藤藤右衛門家文書)。享保六年には板垣、松ケ谷両村の鍛冶職がそれぞれ一四〇匁の鍛冶役銀を納めている(片山武治家文書)。このように五〇か村ほどある池田地域で、鍛冶役銀を納める鍛冶職が三か村におり、その地域の需要にこたえていたのである。
 鯖江藩が成立して間もない享保六年の「乙坂組明細帳」(三留区有文書)、同八年の「今立郡卯郷帳」(斎藤勘右衛門家文書)によれば、この頃鍛冶役銀を納めた村は先の今立郡の二か村以外に、丹生郡の上大虫村があった。およそ一〇〇年後の文化七年の「越前国西鯖江御領分御物成郷帳」(市橋六右衛門家文書)によれば、鯖江藩領一三二か村の内鍛冶役銀を上納した村は一三か村、役永合計一貫〇〇一文余に増加している(表95)。

表95 鯖江藩領の鍛冶役上納村

(準備中)

 丹生郡では、元禄十六年の高森藩領の「樫津組村々大差出帳」(田中甚助家文書)の二九か村の内で鍛冶役銀を納めているのは、小曽原村に一人(銀八匁四分)、厨浦に一人(同四匁二分)である。樫津組に属さない上大虫村では、宝永元年(一七〇四)に一人当たり銀八匁四分、合計二五匁二分の鍛冶役銀を高森陣屋に納めている(「上大虫村鑑」竹本治左衛門家文書)。寛保三年の幕府領平井組では鍛冶職は厨浦一軒のみであった。下野田村では宝暦十年の「下野田村差出明細帳」(加藤五郎左衛門家文書)に「鍛冶弐人 但野鍛冶」と記され、寛政二年の年貢免状(丹尾清隆家文書)に鍛冶役永として一四〇文が記されている。
 また、福井藩では延宝四年に領内から鍛冶役銀として七二匁を上納させている(「延宝四年領分成箇帳」松平文庫)。敦賀郡では大比田浦に鍛冶職が稼業していたことが享保、文化、嘉永の記録からうかがわれる(中山正彌家文書、石井左近家文書など)。
 野鍛冶の手仕事の値段は、天保十二年の「鍛冶細工物値段取極連印帳」(馬面武治家文書 資4)によれば、鍬真先作りが銀一一匁より一五匁まで、三鍬刃先作り四匁、五升鍋つる作り三匁、草取り鎌目立て銀一分五厘などであった。



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