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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      敦賀の鋳物師
 敦賀の鋳物師はすでに中世から存在していたが(西福寺文書)、近世に入って蔵人所小舎人を務める真継家の支配を受けていた。鋳物師の住居は、気比松原の南の鋳物師村を中心とした地域で、「正保郷帳」にも村名がみえ、享保十四年には家数四一軒、鋳物師を業とする者がいることから鋳物師村と呼ばれるようになったといわれている(「敦賀郷方覚書」、「敦賀志」)。
 河瀬甚右衛門は敦賀鋳物師の代表で、世代が代わるたびに清涼殿の鉄灯篭を鋳て御所に献上していた。敦賀で鋳造されたものは庶民が使用する鍋・釜・鋤先が主であったが、梵鐘・半鐘・鰐口・鏡などの注文にも応じた。現存する近世最古の梵鐘としては、滋賀県マキノ町願慶寺に甚右衛門・次郎兵衛尉・与三兵衛尉作の寛永十二年のものがあり、それ以後のものを含めると近世末までに十数点が確認できる。その分布は越前が大部分だが、近世初期には津軽・秋田・越後などからも注文を受けて鋳造した。文政十一年頃の鋳物師としては、河瀬甚右衛門・竹中源右衛門・竹中助次郎・竹中忠兵衛がいる(「諸国鋳物師名寄記」)。
 甚右衛門は、幕末に海岸防護のため大砲方に任ぜられており、大砲の設計や鋳造に参画している。文久元年の「諸国鋳物師控帳」によれば、河瀬甚右衛門・竹中源右衛門・竹中助四郎・竹中忠兵衛の名がみえるが、明治二十年代に廃業した。

表94 敦賀釘の値段

表94 敦賀釘の値段

 また、敦賀では釘の生産も盛んであった。慶長六年から始められた福井城の普請に使用された釘は、敦賀の釘鍛冶が納入した(『敦賀市史』通史編上巻)。寛文三年頃の敦賀町の職人を、人数の多い職種からあげてみると、鍛冶六五人、大工五二人、桶屋三五人、紺屋二六人、桧物屋二五人、大鋸一二人、木挽六人となり、鍛冶職が一番多い。鍛冶職は刃物と釘の兼業が容易であるから、多くの釘鍛冶が存在したことは確かであろう。特に敦賀は小浜とともに、造船業が盛んであったので、釘が多く使われた。当時、銀一〇匁につき釘一貫七七八匁と公儀の値段が決められていたことも、その保護統制のもとに置かれていたことを示す(「寛文雑記」)。享保・元文(一七三六〜四一)の頃には、釘の種類と値段が詳しく規定されていた(表94)。釘の種類も多くなっており、小浜へも多く送られていた。
 寛政四年の一対の石灯篭が、気比神宮に建てられている。敦賀の釘屋仲間一〇人が奉納したものである。石灯篭は天保十四年にも釘屋など七人が再建しており、釘の生産販売が盛んであったことを示している。
 寛政期以降、敦賀と蝦夷地との交易が盛んになり、敦賀から多くの産物が移出された。松前の役所会所建設のため箱館会所に納めた釘を文化五年に限ってみると、膨大な数であった。すなわち、五寸一七万本、四寸一八万本、本三寸三七万本、並三寸三三万本、大板付六五万本、小板付七二万本、のし立六〇万本、相の物二五万本、戸作五五万本、その他合わせて三八五万三二〇〇本であった(『敦賀郡誌』)。嘉永三年頃成立の「敦賀志」には、「敦賀の鵜飼ケ辻子町は皆、碇鍛冶、釘鍛冶などの鍛冶職である、敦賀釘は鍛えが良いというので、若狭・近江・美濃・尾張・伊勢などの国々で用いられている」と書かれている。



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