目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      販路の拡張と打刃物問屋
 越前鎌の生産については、『国事叢記』寛文八年(一六六八)の越前産物三六品種の中に、鎌・菜刀が記されているが、貞享四年(一六八七)の府中町の九業種の商工業者が納める諸役(営業税)に占める鍛冶職の役銀は一二七匁五分で七位と比較的少なかった(前『福井県史』第二冊第二編)。寛保三年(一七四三)頃成立の「越藩拾遺録」には府中産物に鎌・鉈と記されている。文化十二年の『越前国名蹟考』には府中の産物六品種の中に鎌があげられている。慶応の頃福井藩が諸物産に課した雑税のうちでは、鎌・菜刀八〇万七〇〇〇丁に永三貫七五〇文が課せられており、この産額はおそらく全国第一位と思われる(「越前史料」)。
 近世の中頃までは府中の鎌は鍛冶職が直接消費者に売却したり、鎌行商人が全国各地の農家を訪ねて小売りをしていた。明和(一七六四〜七二)・安永の頃から府中に鎌問屋商人が現れたようで、その一例として近世末期に府中領主本多家の御用達、福井物産会所元締役になった打刃物問屋浅井権兵衛家をみよう。浅井家は延宝六年(一六七八)頃は鍛冶屋権兵衛と称し、鎌鍛冶を業としながら家屋敷を買い集めた。約九〇年後の明和年間には仕出屋権兵衛と改称して、鎌の製造のかたわら鎌の販売を手広く行い、頼母子講銀を同業者に貸し付けるなどしており、鉄材料の仕入に三国湊の荷主問屋と取引きを持つようになった。寛政十一年には美濃の鎌売場の権利を一八両で買い取っており、同年加賀本吉の運送問屋明翫屋治兵衛に金二〇〇両を貸し付けている。文政十年には苗字帯刀を許され、天保年間には問屋仲間の惣代となっている(浅井征三家文書)。
 文化六年には鎌売仲間二〇人が定法を定め、毎年正月に総会を開き、年行司二人が中心になって卸値・小売値の協定、売場への新規立入の禁止など問屋仲間的な動きをしている。文政五年になって、鎌問屋仲間約三〇人が問屋株仲間の許可を町奉行に申し出たが、この時は鍛冶株仲間の反対で成立しなかった。しかし、天保三年から問屋仲間から毎年銀三〇〇匁の上納が許され鎌問屋の株仲間が承認されたらしく、嘉永五年には三六軒の問屋仲間が存在した(武生市立図書館越前打刃物関係文書)。
写真67 諸国へ配布した鎌値上げ口上書

写真67 諸国へ配布した鎌値上げ口上書

 越前鎌商人の国外販売の古い記録としては、宝暦二年(一七五二)飛騨高山の飯山寺開帳相撲に、越前から毎年鎌の行商に行った鎌屋と称する者が大関相撲をとった記録がある(『蘭亭遺稿』)。また、同年に甲府鍛冶町の七人の鍛冶職が町支配所に差し出した願書がある(『甲州文庫史料』)。後者によれば、甲府の町へ美濃・尾張・越前などから鎌が入り地元の甲府鎌が売れなくなったという。越前鎌は中部・関東・東北・近畿へと広がり、安政六年(一八五九)福井藩が物産総会所を設け、府中では同年に町奉行の支配下に制産方を置き、四国・中国・九州地域へも販路を広げていった。文久二年に鍛冶仲間から「制産役所」に出した願書によると、一年間に最小限二〇〇〇個(推定鎌数約五七万丁)を役所に納品できるとしている。元治(一八六四〜六五)・慶応年間に福井藩から国外に移出した府中鎌・菜切り包丁の売上高は二万両で上位七位にあり(「要書必携」村野文次郎家文書)、明治七年(一八七四)の『府県物産表』では、越前鎌の生産数量が約九七万丁、売上高が約四万九〇〇〇円で、それぞれ全国の二七・四パーセント、一六・〇パーセントを占め第一位であった。
 また、府中の鍛冶屋は釘の生産もしていた。寛政十年には上市町の弥助が釘鍛冶の座株を買い受けており、釘鍛冶年行司が釘鍛冶仲間を統制していた(『鍛冶仲間記録』)。



目次へ  前ページへ  次ページへ