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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      鍛冶株仲間の成立
 府中の鎌・菜刀・釘などの鍛冶職が仲間を作り取締りをしていた最初の記録は延享年間であるが、その後三〇年ほどして安永(一七七二〜八一)年間に鎌鍛冶の鞴株仲間がつくられ明治初年まで続いた。府中領主本多家へは毎年三〇〇匁の運上銀を上納した。株の数は鍛冶職が使用する鞴の数で決めたが、その数の変遷は表91に示したように、寛政九年(一七九七)には一三九株であったが、嘉永六年(一八五三)から幕末までは一五一株である。一方、鍛冶職の数は寛政九年には七二軒、嘉永三年には一一一軒になり、慶応二年(一八六六)には一二九軒に増加した。鞴株の数は府中の町奉行が決定した。鍛冶職は鞴株を持たなければ営業ができず、また仲間の規則を守り製品の製造・販売、使用人の雇い入れなども統制され、生産量の調節や品質保持のための強い規制を受けた。株仲間の組織は最初は年行司(年行事)一〇人が選ばれたが、文化六年(一八〇九)からは頭取一人を選び、その下に年行司三人、総代六人をおいた。天保十三年(一八四二)からは頭取を庄屋と呼び、年行司を二人に、総代を七人に改めて明治初年に至っている(『鍛冶仲間記録』)。

表91 府中の鞴株数と鍛冶職軒数

表91 府中の鞴株数と鍛冶職軒数


写真66 鞴株札(表と裏)

写真66 鞴株札(表と裏)
 鞴株の所有権を明確に示すものが鞴株札である(写真66)。株札の交付は幕末を除きおよそ二五年ごとに行われ、現在確認できる交付年は、寛政十年・文政八年(一八二五)・嘉永六年・慶応二年の四回である。鍛冶職の七割ほどは一株だけを所有していたが、二株を所有する者も嘉永六年には三六軒、慶応二年にも二六軒あった。また、三株・四株を持つ鍛冶職も一軒から三軒あった(表91)。株札には通し番号がつけられ、所有者は「鞴株割印帳」に登録され、株札には割印を押して各人に配付された。株札の譲渡は仲間の承認と町奉行の許可が必要であった。株札には越前和紙が使用された。売買される株札の値段は、文化十一年には銀三〇〇匁、天保十三年には銀六〇〇匁であった。このように鞴株の移動を厳重に取り締まったのは、鞴株が仲間外に流出することを防ぐとともに、一定の技術を持った者を仲間に入れて仲間の利益と製品の信用を落とさないようにするためである。



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