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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     二 越前和紙
      その他の産地
 越前・若狭では、五箇以外にも紙の産地があった。坂井郡では、楢原・北楢原・田谷・四十谷の四か村で紙漉きが行われ(「越藩拾遺録」、『越前国名蹟考』)、文政十二年には田谷村大安寺から福井寺社奉行に宛てて、鼠半切を紙屋が買い入れてくれるよう願い出ている。明治五年の「足羽県地理誌」にはこの四か村で九五軒が紙漉きに従事している。
 大野郡では天和二年(一六八二)厚紙を紙役として大野藩に納めた村は領内九一か村の内、笹俣・中島・上大納・箱ケ瀬・黒当戸・小沢・上秋生の七か村であり、その合計は一三六帖六八枚であった(「大野藩郷村高帳」土井家文書 資7)。宝暦九年の郡上藩領穴馬二一か村の内、市布・上半原・下半原・荷暮・大谷・野尻・米俵・伊勢・久沢・長野・角野・下大納・板倉・朝日・川合・貝皿の一六か村は紙役を藩に納めており(古世賀男家文書 資7)、久沢村では九〇年後の弘化三年まで毎年定額を納め紙を生産していた(野村宗右ヱ門家文書)。熊河村では、安永五年に厚紙一束一二枚の役紙代として永八三文三厘を納め、温見村では、天明四年に厚紙四帖一二枚の役紙代として永三五文四分を幕府代官所へ上納している(山崎吉左衛門家文書)。川合・鷲・野尻・長野・朝日・打波・下山の各村でも、嘉永二年頃に波紙と呼ぶ紙の生産が盛んで、川合村では波紙の合計は二七丸二束八帖、重さ三四貫一七〇匁、代銀五四四匁三分三厘であった(平野治右衛門家文書 資7)。
 丹生郡平等村では、元禄十六年紙屋一軒が奉書類を漉いて舟役銀二匁を納めている(田中甚助家文書)。また、同郡上大虫村では、宝永二年の村明細帳に一一軒の紙漉きが記されており、享保五年に新たに同村の領主になった鯖江藩は試みに鼻紙を漉かせ、江戸よりも安価であったので買い上げることにした。この頃、上大虫村には宮川、河合姓の鯖江藩御用漉屋があり、このうち宮川(丹尾)新七郎は、前述のように江戸の御用紙屋から朝鮮国王返翰紙間似合鳥子紙の注文をたびたび受けている。同家は文化七年には紙舟役として永一六六文余を納めていた(「西鯖江領分物成郷帳」市橋六右衛門家文書)。さらに、文政から弘化の頃には、京都の六条御殿・吉田御殿・東本願寺の奉書御用を勤めていた。鯖江藩主間部詮勝の領内巡見記録である文政五年三月の「政午紀行」に、上大虫村に至る、新七郎といふ家に駕を息へて午飯を食し暫く馬の蹄を休しぬ、此家紙を漉くことを業とす、奉書紙・大高檀紙を製せり、此村中多く此を業とす、朝鮮来聘の返翰紙も古より製せり、紙を漉く小屋に入りて一見するに、小屋の中に小流を引き楮木皮を製す、多くは女子寄聚てなす、とあり、当時の紙漉きの様子をうかがうことができる。嘉永四年頃は今立郡五箇村よりも上質の大高檀紙を漉いていたという(大滝神社文書)。
 今立郡では五箇以外に下戸口・野岡・川島・出口・水海・篭掛などの村で紙漉きが行われていた。
 南条郡府中では、『和漢三才図会』に「鳥子紙、間似合紙越前府中に出る、紙の王と云うべし」とあり、紙漉きとともに紙の販売にも手広く従事していたと思われる。弘化元年江戸城炎上の際、鳥子屋久右衛門、同次左衛門が白鳥子紙一万枚を納めている。同郡赤萩村では寛文四年以前から楮を河野浦から買い入れて紙漉きをしており(赤萩区有文書 資6)、大良浦でも寛保三年(一七四三)の頃、布包紙・雑紙を漉き、明治七年の「職業渡世取調」によれば七軒が紙漉きをしている(中野貞雄家文書)。また、瀬戸村など田倉谷の村々でも紙漉きが行われていた。
 敦賀郡では敦賀の鳥子紙が有名である。万治二年(一六五九)江戸城普請に小浜藩主酒井忠直は、敦賀の間似合紙一万五〇〇〇枚を幕府に献上している。この頃敦賀の紙漉きは御手洗川周辺に住みおよそ五〇人が従事していた(「寛文雑記」)。近世中期には紙漉仲間は本座と新座合わせて二八人がおり、明和八年には紙役を上納した者の代表として、本座に鳥子屋久兵衛、新座に紙屋十兵衛がいた。中期以降全国各地で紙の生産が高まり、さらに天明八年の京都大火で西陣が被害を受け、箔下に用いられた鳥子紙の注文が減ったことと重なって、紙屋が経営不振に陥ったが、小浜藩の資金融通の保護策などもあって生産が続けられた。
 遠敷郡では名田庄を中心に紙漉きが行われた。元禄の頃湯岡村では奉書紙や杉原紙が、桂木・田・和多田・三重の各村では厚紙が漉かれ、出合村では合羽や紙衣に使用する紙が漉かれた(「若狭郡県志」)。これらの紙は京都・大坂において名田庄紙と呼ばれて広く用いられた。



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