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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     二 越前和紙
      紙草
 五箇紙の紙草は楮が主で雁皮や三椏も少々使われた。楮は慶長三年の大滝村の太閤検地帳に紙畠が四筆二反七畝あり、ほかの畠と併せて三五本の楮が記されている。また、近くの「野岡山室村検地帳」(古川木戸兵衛家文書)には、畠一八筆合わせて七反三畝三歩に楮の木があると書かれており、五箇の紙草として使われたと考えられる。
写真65 紙漉(「紙漉図屏風」)

写真65 紙漉(「紙漉図屏風」)

 寛永八年頃には、紙草は五箇で栽培されたのを買うか、または粟田部や府中の市で買い入れるのが通例であった(三田村士郎家文書 資6)。寛文七年には楮を粟田部にて買うことはよいが、野岡川(月尾川)より向こうの野岡領内にて買うことが禁止された(大滝神社文書 資6)。しかし、この頃すでに楮を若狭から移入していたようで、同十年には、新在家村の七左衛門が楮皮を若狭から脇道の糠浦に荷揚げして咎められている(宮川源右ヱ門家文書 資6)。
 生産量が増加するにしたがい、宝永七年には福井藩は領内の楮の移出を禁止し、他領からの移入を盛んにした。この頃以降、府中の楮問屋仲間が五箇の紙草の仕入に活躍している。明和三年府中には紙屋久四郎外八人の問屋があり、南条郡産の楮や敦賀から河野浦に運ばれる楮を売買した(岩本区有文書)。楮の値段の決定は、天明三年の一札によれば、五箇村庄屋と漉屋の代表が府中に行き、山方ならびに問屋と種々検討して決めることになった。ひそかに前金を渡して抜買いすることなどを禁止し、三田村上総が幕府に納める紙に使う紙草には支障のないよう申し合わせている。ここで取引きされる紙草は、手繰皮(白皮)・黒皮・木楮で、手繰皮とは楮の黒皮を水に浸し外側の荒皮を落としたものである。五箇の漉屋と府中楮問屋との楮値段の取決めは天保七年(一八三六)にもなされ、毎年暮に値段を決めることや、手繰皮の生干し・蒸焦げ・干折などが混じらないよう吟味することなどが決められた(岩本区有文書 資6)。
 幕末になると漉き屋の経営は極めて難渋に陥ったので、福井藩は安政四年より五か年間紙草を藩が買い上げて漉き屋に貸し付けることにした。日野川より西の楮は、府中問屋に山方・漉き屋の総代の者が集まって値段を決め、日野川より東の楮は、西の楮値段に準じて山方・漉き屋の総代が集まって決め、問屋以外の者はたとえ村内の楮でも取引き出来ないことにしている(新在家区有文書)。天保十年南条郡大谷浦の裏山の楮およそ一万貫を隣村の河内村に売り渡す契約をしているが、この楮は府中を通って五箇に運ばれたと思われる(向山治郎右ヱ門家文書)。大野郡の楮は足羽郡大宮村から折立峠を通って、または東郷宿から五箇へ運ばれ、若狭や山陰地方からは三国湊から九頭竜川・日野川を上り白鬼女を通って運ばれた。遠敷郡名田庄では雁皮が作られ越前に運ばれて鳥子紙の原料になっている(『稚狭考』)。
 福井藩では五箇村での楮の増産を図った。文化十年には楮株を他国より取り寄せて村々へ売り渡し植付けさせる触を出した。岩本村では三〇〇株の植付けを決議している。天保十二、三年には岩本村で楮苗一六三〇本を二六軒で引き受けている(岩本区有文書)。



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