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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     二 越前和紙
      五箇紙の種類と販路
 天正・文禄(一五九二〜九六)の頃から、五箇の紙は奉書紙の名で代表されてきた。中世の鳥子紙の名は、慶長七年結城秀康黒印状の鳥子屋才右衛門宛ての鳥子役上納の記録(内田吉左衛門家文書 資6)などわずかにみられるのみで、その関連はわからない。慶長・元和の頃、長高・正宗・間の紙の名が奉書と共に出てくる。延宝の頃には、引合紙・五色奉書・半紙・中ノ目・土佐紙などの生産があり、元禄期から生活文化の向上にともなって漉き紙の種類も飛躍的に増加した。
 元禄・宝永(一七〇四〜一一)年間の幕府および福井藩御用の紙値段留(三田村士郎家文書 資6)によれば、およそ八三種(表90)を数えるが、これに御鼻紙・大高檀紙・雑紙・障子紙などを加えれば、五箇の漉き紙の種類はさらに多様であった。『紙譜』では、越前奉書に大広・大奉書・中奉書・小奉書・色奉書・紋奉書・墨流をあげており、『経済要録』には五箇の紙として先の二〇種が記されている。

表90 五箇紙の種類と値段(1688〜1711年)

表90 五箇紙の種類と値段(1688〜1711年)

 楮約七割と雁皮約三割とで漉き上げる札紙も作られた。福井藩札は寛文元年(一六六一)幕府から最初の許可を得て発行され、以後中断の時期もあったが幕末まで発行された。これらの藩札用紙にも五箇の紙が用いられたと思われる。また、丸岡藩札は安政元年以前から、大野藩札は弘化三年(一八四六)には五箇で漉かれていた。明治政府の太政官札の漉き立てが五箇に命じられたのは明治元年三月であり、一〇両以下の金札五種と、二分以下の民部省札四種が、同三年四月まで漉かれた。また、明治元年福井藩の銭券紙、同二年には五〇〇文以下四種の西京為替会社の銭券紙も漉かれた(『岡本村史』)。
写真64 御用紙荷の木札

写真64 御用紙荷の木札

 五箇紙の販路は、幕府・福井藩を初めとして、和歌山・名古屋・小浜・彦根・大聖寺・松江・西尾の各藩、京都所司代などの武家や、粟田御所青蓮院・知恩院・気比社などの門跡・社寺であった。さらに、越前国内はもちろんのこと、京都・江戸・大坂などを通して商奉書の名で一般の人々にも広く売られていた。また、文化四年(一八〇七)には江戸の磯田七郎兵衛等三人の幕府御用達から朝鮮国王への返翰紙間似合大鳥子紙四六枚の注文が、丹生郡大虫村の紙屋宮川(丹尾)新七(郎)に入ったが、新七はこれを五箇の加藤河内に依頼して納めている。このことは、天明七年にも行われていた。弘化元年には五月に江戸城本丸が炎上したため、福井藩より白鳥子紙三〇万枚献上のため五箇紙屋五軒と府中紙屋二軒に注文があり、約半年で納入している(加藤河内家文書)。



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