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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     二 越前和紙
      奉書御用と御紙屋・紙会所
写真62 結城秀康黒印状

写真62 結城秀康黒印状

 五箇のうち大滝村に居住して、中世末期から近世末期まで五箇紙の製造販売の元締め的な地位にあったのが、三田村家であった。三田村家の祖は道西掃部または大滝掃部といわれ、その漉き紙に押す■の印は斯波高経から与えられたと伝えられており、奉書紙職を安堵されている。その後、織田信長からは七宝の印、豊臣秀吉からは桐の紋の印を許されたという。慶長三年八月、太閤検地の検地奉行であった木村宗左衛門由信は、掃部に大滝村の代官職を命じている(大滝神社文書 資6)。関ケ原の戦いの後初めて越前に入った福井藩主結城秀康は、同六年九月に大滝紙屋三田村掃部に宛てて奉書紙職を前々のごとく申し付ける旨の黒印状を与えている(三田村士郎家文書 資6)。
 三田村家は福井藩の御紙屋の筆頭であったが、さらに注文を受けて幕府へ用紙を納める五箇で唯一の家であった。その時期は江戸初期から幕末までで、紙の種類は奉書類を初めとして元結紙・檀紙・鼻紙・間似合紙・墨流・鳥子紙・水玉紙など種々であった。元和(一六一五〜二四)期にはすでに江戸に家宅を構え、幕府御用達の奉書屋と呼ばれていた。寛永五年には三田村和泉吉家が江戸に出て大御所秀忠・将軍家光に謁し、その後、将軍の代替わりごとに小奉書二束を献上し御目見を許されるなど(三田村士郎家文書)、その特権的な地位は強まっていった。慶安(一六四八〜五二)の初め頃からは西丸の奉書御用も勤めた。幕府からの用紙の注文は、本丸・西丸の御納戸役より八、九月頃に翌年分の用紙について出され、翌年六月頃までに納入した。三田村家には江戸初期からのこれらに関する記録が残されているが、宝暦八年と嘉永三年(一八五〇)の二か年について三種の奉書の注文数と代価を表89に示した。

表89 幕府から三田村家への奉書注文高

表89 幕府から三田村家への奉書注文高

 用紙の注文を受けると三田村家は幕府に資金の前借りを願い出る。天明六年(一七八六)の例では、注文高二六〇〇両の借用を申請して一二六〇両の前借りを許されている。三田村家では注文紙の漉き出しを始めると共に、前借り金を渡して五箇の特定の漉き屋にも下請けさせた。紙は、大奉書は三束、中奉書は五束、小奉書は六束がそれぞれ一箱に入れられ、三箱を一駄として葵の紋の下に御用の二字を書いた絵符(木札)を付けて運ばれた(三田村士郎家文書)。
 福井藩では、延宝六年(一六七八)定書を出し、藩に必要な用紙の漉き立てを三田村和泉を初めとし、近江・山城・河内の四人に命じた。この受領名を許された家はまた、高橋・清水・加藤の苗字を名乗る家でもあり、他国へ出す諸紙の改め役の特権をも与えられ御紙屋と呼ばれることになった。この定書の要旨は次のとおりであり、そのねらいは売買の実態を把握し運上銀を確保することにあった(大滝神社文書 資6)。
  一、国へ売り出す商奉書は、和泉等四人の御紙屋に貫目・束数の吟味をうけその差紙(証明書)をもらい、藩の勘定所へ持参して関所通手形をうける。
  一、一束一貫目以上の商奉書は自由に取引きしてはならない。買い入れる者は勘定所に届けて差紙をうけること。
  一、他国の諸大名より誂えのあった奉書は、その藩の役人の注文書及び奉行人の書状を取って勘定所へ届け、その事情により許可する。引合紙・五色奉書の誂えも同様である。
 元禄十二年(一六九九)五箇岩本に紙会所を建てて今までの勘定所に代わって藩の支配を強め、判元を委任して資金の融通と運上金の制度を確立した。紙会所には福井より出番の吟味の役人(小算)と判元またはその代理人を置き、紙の値段決めに御紙屋も加えた。漉き紙はすべて判元が買取り販売したが、その際判賃と運上を加算した。判元は漉き屋に対して紙草仕入銀を前貸しし、翌年漉き紙で返済させた。元禄十二年の判元には、三木権太夫ら京都の商人三人が委任された。
 元禄十六年に、判元は吉左衛門(内田)・小左衛門(野辺)・善左衛門(中条)・吉右衛門(内田)等、岩本の紙仲買人四人に交替し、さらに享保八年(一七二三)には三田村和泉に交替し(岩本区有文書)、三田村氏を除く御紙屋三人は見取役となって当番で紙会所へ勤め、判元は漉屋への前貸金と紙の買取りを中止し、紙の改めと運上銀の取集めが主な任務となった。宝暦の頃になると、全国的に良質紙の生産が増し五箇の紙の販売量が落ちてきた。明和五年(一七六八)運上は各村から納めることとして、判賃の経費のかかる紙会所と判元制を中止した。しかし六年後の安永三年紙改めの強化のため紙会所を再興し、三田村和泉を判元に再任し、それらの経費を藩より支給した(『岡本村史』)。
 安政六年(一八五九)十月、藩は物産総会所を福井に設けて藩財政の建直しをはかった。文久二年(一八六二)五箇の紙会所も物産総会所と同じ機構に属し、明治元年(一八六八)三月から太政官札の漉き出しなどにも従事したが、同三年五箇村奉書紙会社の設立によって、紙会所の機能も終わり、筑前・丹後・山城・河内などの受領名もこの年から廃された(『由利公正伝』)。
写真63 太政官札

写真63 太政官札




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