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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     二 越前和紙
      越前五箇の紙
 奈良正倉院文書中に紙を貢進する国が一四か国、製紙の材料の紙麻を納める国が一〇か国あげられている。越前はその中にみえ、写経用の紙を大量に都に運んだこともあり、当時すでに紙の主産国であったと考えられる。
 平安期に入って製紙はほぼ全国に広がったが、越前でも盛んに行われていた。今立郡岡本地域は「五箇」と呼ばれる五か村(岩本・不老・大滝・定友・新在家)があり、紙漉きの業を伝えたという川上御前の伝承を初めとする多くの紙漉きに関する伝承がある。五箇は越前国府に近く「岡本神社」に比定される延喜式内社もあって古くから開けたところと考えられているので、古代の越前の代表的な紙の産地であろうといわれている(『岡本村史』)。
 文明(一四六九〜八七)年間以降の日記・記録類には、越前から京都に向かう貴族や僧侶たちの土産として、越前の紙が用いられたことが多く記されている。これらの紙は斐紙に類する鳥子・薄様・打曇などであり、越前は鳥子類の紙の主産地であったことが知られる(『御湯殿上日記』など)。
 これらの紙が五箇で生産されていたという確証はないが、寛正元年(一四六〇)には南条郡河野浦の刀外字百姓が府中総社から引出物として「大滝さつし(雑紙)」を贈られており(刀外字文書)、天正三年(一五七五)府中を支配した前田・佐々・不破の三人衆は大滝紙屋衆に対して、朝倉氏時代から許されていたと思われる紙座の生産販売の独占権を引き続き許可している。朝倉氏時代に大滝から納められた紙は御教書紙が主であって(「三田村和泉大掾由緒」三田村貢家文書)、近世五箇の紙の主流であった奉書紙の名は天正元年が初出である(「越前国仕足日記」「尋憲記」)。当時、鳥子紙からどのようにして奉書紙にかわっていったのかなどについても明確でない。
 天正九年から慶長五年(一六〇〇)頃までの約二〇年間、府中にあって五箇をも支配した佐々成政・丹羽長秀・木村常陸介・青木一矩・堀尾可晴の各領主は、五箇の紙の生産に統制を加えている。
 近世に入って越前五箇の紙は全国的に知られるようになった。寛永十一年(一六三四)福井藩主松平忠昌が上洛の際、京都の貴顕に土産として差し出した中に奉書紙一二〇束があり(『国事叢記』)、貞享元年(一六八四)の『雍州府志』には「越前鳥子、是れを以て紙の最となす」とあり、正徳五年(一七一五)の『和漢三才図会』には「肌なめらかで書きやすく、紙質ひきしまって耐久力があり、紙の王と呼ぶにふさわしい紙」と褒めたたえられている。宝暦四年(一七五四)の『日本山海名物図会』には「凡日本より紙おほ(多)く出る中に越前奉書、美濃直紙、関東の西ノ内、周防岩国半紙尤上品也、奉書余国よりも出れども越前に及ぶ物なし」とあり、安永六年(一七七七)の『紙譜』には、「越前奉書に大広・大奉書・中奉書・小奉書・色奉書・紋奉書・墨流があり、いずれも一束四八枚ずつ、上品を真草、中品を半草、下品を刮という。越前五箇村で漉く紙を上品とす」とある。
 また、文政十年(一八二七)の『経済要録』には、
明和・安永ノ頃迄ニ皆競テ精ヲ尽シ、紙ヲ大坂ト江戸ニ出スコト夥シ、先其高名ナル者ハ越前ノ檀紙・大鷹・中鷹・小鷹・檀縮・小色縮奉書・大広・御広大奉書・中奉書・小奉書・五色奉書・紋奉書・墨流・杉原紙・鳥の子・間似合・尺長・厚物・小杉・小半紙等、凡貴重ナル紙ヲ出スハ、越前岩本・大滝・定友・不老・新在家此五ケ村ヲ以テ日本第一トス
とある。このように江戸時代を通じて、五箇の紙は種類も多く質も優れていたことがうかがえよう。五箇には漉き屋が集中しており、農村ではあったが年間を通して稼業していた専業漉き屋の集団の村であった。したがって当時越前和紙と言えば五箇の紙を指していたのである。



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