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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      鉛山の開発
 十六世紀後期より十七世紀初期にかけて、金銀山の興隆、銅山の開坑に伴い、秋田・津軽・仙台藩領等の東北地方、越後・越中の北陸地方、但馬・備中等の中国地方に鉛山の開発が行われて産鉛の増加がみられた。「絵図記」に、大野郡坂東島村に「乾に鉛山の間歩あり」、また伊勢三か村に「鉛山あり」と記している。延宝六年六月、伏石・八町村惣百姓より福井藩奉行に、御領村弥四郎谷に去秋より銅山を開き、谷より流れる掛り水にて田地の障りとなることを訴えたことは、面谷銅山の記述の条で引用した。この訴状中に、先年大野藩領の伊勢村・秋生村に銅・鉛山吹き申すにつき落水悪水となり両村田地の荒れた先例を述べている(伊藤三郎左衛門家文書 資7)。伊勢村の鉛山稼行はあるいは近世初期にみられたのであろうか。
 大野郡の鉛山について、具体的に知られる記録の存するのは近世後期以降である。しかし前掲の訴状に、秋生村の銅鉛山の稼行を記しており、これは後述する上秋生村の中天井鉱山を指すのかも知れない。
 文化十年七月に真名川流域の堀兼・大井両組の諸村が、中島村地内の雲川上流にての鉛山稼行への対策のため、訴願する入用割を定めて取り替わした証文がある(土蔵市右衛門家文書)。これによると、この稼行は再度の企画で、五年以前同六年に大野町人岩井屋儀兵衛・中屋治郎兵衛が採鉱したという。同七年春に苗代・耕作田に被害があり、岩井屋等より採鉱に工夫し支障なきようにすると告げたが、大野藩より稼行停止を命じられたとある。
 岩井屋儀兵衛は文化七年六月朔日に大坂へ登り、ついで本上屋藤右衛門等三人が出坂して、住友において、盆前届けた銅・白目・鉛の代銀の仕切算用を済ました。岩井屋等は当時面谷銅山稼行の元締であった。住友は寛政十、十一年に面谷銅山を請負稼行した関係もあり、その末家が面谷銅の銅座売上の世話人すなわち問屋を勤めてもおり、大野藩領産の白目・鉛の販売にもあたったのである。岩井屋は福井藩領粟田部の新屋三右衛門とともに、中島村鉛を売り捌いていた。彼は住友に、中島村鉛山はこの年四月頃藩より稼行を差し留められたと告げている(「文化五戊辰年年々帳」住友史料館文書)。
 文化十二年十月面谷銅山元締の綿屋武右衛門が大雲鉛山の稼行引請方を住友に頼んでいるが、同八年十月すでに綿屋より中島村鉛山について使人をもって住友へ説明しており、同じ目的からであろう。同十三年八月初めに綿屋登坂して大雲山検分方の派遣を強く求め、それが藩の方針であると告げている。同鉛山は岩井屋稼行の後に藩の御手山となって出鉛もかなりあり、鉛一〇〇斤につき含銀四〇匁から五〇匁ありといい、御手山は文化十二年より翌十三年春にいたったが、やはり練達の業者たる住友に稼行引請を依頼したいというのである。同十一年末に鉛山仕入のため金一〇〇両を住友より藩へ貸与し、同十三年八月には鉛山を引当として二〇〇両の出金を藩は求めた。同月住友の手代は綿屋と同道して現地へ向け出発したが、翌閏八月下旬には山色悪く離山を相談したという旨の報告があった。九月には手代より飛脚便により稼人等は雪解け頃まで篭山の歎願あり、住友より休山決定の返答をした。さらに十月藩奉行より飛脚便をもって面谷銅問屋の住友末家に宛て、来春三月頃まで稼行を請うており、また岩井屋より休山の予定なれば三月まで下請稼行したいという申し出があって、住友は承知の返報をしている(「年々記」「万庭帳」住友史料館文書)。
 文化四年に内山良倫が面谷奉行に任じられ、銅山のほか中島村鉛山の管理取扱を兼務することになり、以来奉行は銅山・鉛山の御用掛を兼ねたようである。奉行横田重興の控に、天保十四年の「西ノ谷鉛山覚」(横田家文書)が記されている。
  一、 秋生村際金山谷と云
  一、 中天井鉱山上秋生村
  一、 黒当戸ヨリ一リ黒谷トイフ
  一、 中嶋ヨリ十丁荒倉 半道大雲 半道高谷(屋)トいう
 また同人の「銅山御用懸用留」(土井家文書)に、東吹所の南蛮吹において、その合吹に荒銅一〇貫匁に鉛三貫匁を合わせるが、荒倉・金山谷(下秋生村)の産鉛はそのまま使用でき、黒当戸山字黒谷・上秋生山字中天井の産は鉛に銅・白目が四分ほど加わっており、山元で荒吹し東吹所で南蛮床にて再三流して鉛・銅・白目を分離し(鉛流しという)、使用するとある。
 さて、中島村地内の雲川付近に瀬柄・北大雲・高屋・南大雲・大倉等の鉱山ありと報じられ、いずれも黄銅鉱・方鉛鉱等を産する銀銅鉛山とされる。中嶋から雲川をさかのぼり大雲谷をのぼること二キロメートルで文六鉱山に達し、その東方に高屋鉱山がある。北大雲鉱山は文六(文禄)山のことで、南大雲極楽谷の鉱山は文六鉱山と大雲谷を隔てて存在し、普通に大雲鉱山という時はこれを指すようである(『西谷村誌』上巻、『大野郡誌』下編)。先に住友が一時稼行を請け負ったのはこの鉱山であろう。
 しかしこの時代に産鉛高多く、銀・白目・銅をも併せ産したのは上秋生村の中天井鉱山であろう。下秋生村から北方約三三〇メートル、白木山の中腹に開坑した。明治二年六月の政府布告によって十二月に提出した大野藩支配の鉱山一か年の出来銀・銅・白目・鉛の代金と諸入費、残額を記した「鉱山出来高調帳」に、以上は面谷銅山・中天井鉛山の産によるとある。そして両山のほかに、少しの産がある鉱山もあるが、問堀(試掘)中のものとし省いたと付記している。明治五年の「足羽県地理誌」に、中天井鉱山につき鉛二四八〇貫四〇〇匁、銅一二七〇貫七〇〇匁、銀四三貫八七一匁余、蒼鉛(白目)二一貫八〇〇匁の産あるを記している。また大雲鉱山の産につき同書に、銅七五貫七〇〇匁、鉛一六貫五〇〇匁、銀一八八匁とある(『西谷村誌』下巻)。



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