目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      小浜藩の御手山経営
 奏与兵衛は安政元年正月没し、その後銅山は藩の直営となったようである。銅山へは藩が任命した元締衆が管理経営に当たり、稼行の実務は住友所属の奉公人で与兵衛の跡を継いだ慶蔵・彦四郎等が担当した。明治三年休山の処理が行われるまで、同様に住友の奉公人が藩の雇用使役人として存在した(「諸用御窺控」住友史料館文書)。
 住友では、鋪方・吹方の組織能力に変動がなければ、御手山稼行が銅の生産費の安くなる有利性を指摘している。民間業者では、運上のほか炭木以下鉱山用の資材が運上諸役の対象となるが、藩営においては問題とならず、運送を初め労力の徴収雇用、資材諸物の集荷等にも経済力以外の権力によりある程度まで支弁しうるし、あるいはその一部の国役化もなしえたであろうとしている。
 宝暦・明和の御手山時代は、産銅は小浜を経由し、小浜・今津間は駄送、今津・大津間は船積、大津・伏見間は駄送、伏見より船積にて大坂へ送られた。住友の稼行下およびその後は本郷で船積し西廻航路によった。嘉永六年までの送状の送主は奏与兵衛、翌年からは若州銅山役所となっている。すべて住友吹所宛てである。銅座売上の取次問屋は、住友本家またはその末家となっている。

表88 野尻銅(大坂廻着高)の売上高(1855〜68年)

表88 野尻銅(大坂廻着高)の売上高(1855〜68年)


写真61 野尻村遠望

写真61 野尻村遠望

 安政二年以後の野尻銅の銅座売上高を計算して表88に示す。安政四年分売上高は一〇万斤に達せず、この頃平銅は一割ないし二割ほどで、万延元年分は内訳平銅二万〇八三六斤、床銅一二万四六二〇斤七分であった。その後は両銅とも減少し、明治元年分は、平銅一〇七二斤五分、床銅三万七七三七斤となっている。
 嘉永元年以後、銅代銀に手当・値増の額に変化があったが、元治元年正月に手当・値増をすべてやめ、銅性の善悪に応じ、当分野尻銅は、平銅一〇〇斤につき銀三八一匁一分、床銅同じく二八九匁三分の値段で買い上げることになった。
 なお、金一両銀六〇匁替で金支払いとした。同年九月に平・床ともに諸山銅すべてに一〇〇斤につき銀三〇〇匁の手当を与えることとし、さらに同年末には糺吹(銅性の検査)により床銅代銀手当は変更されている。慶応二年より五か年間、吹減五斤(一〇〇斤につき)までの分は従来どおり手当銀三〇〇匁を与え、吹減五斤以上の分はその割合により手当を渡すこととした。翌年八月に五か年間二割増を与えることとし、野尻銅は平銅一〇〇斤につき計銀七三七匁五分、床銅計三三一匁一分としている。明治元年二月に銅座は銅会所、さらに同年七月鉱山局、九月に鉱山司と改められた。買上代金に市中相場によって公平に決定して月に六度の定日に支払い、従来問屋に与えていた二分の口銭は与えず、山方(荷主)と相対で世話料を受け取るべしとした。吹(精)銅一〇〇斤の相場と、床・平銅それぞれ吹銅一〇〇斤とするための吹減程度と吹賃を算定して代金を払ったわけである(「若州三幸銅売上諸事控」住友史料館文書)。



目次へ  前ページへ  次ページへ