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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      経営の悪化
 産銅高は弘化元年度一四万斤余、同二年度約一九万斤に達し、地売向の銅山として、その産銅高は屈指のものであったが、経営内容はよくなかった。その事情は、まず鉱石の品位が落ち荒銅の性質が劣り、出来銅は床(尻)銅が多く吹減が大きい。したがって銅座買上値段が安い。弘化四年頃平銅一、床銅三の割合で産出をみたが、翌嘉永元年五月の買上値段は一〇〇斤につき平銅一六八匁六分、床銅一二七匁八分であった。焼鉱の期間を調整して長く休止するため効率が低い。作物等の被害補償の入費も多い。運上銀も割高であって、弘化三年度より住友よりの交渉で、出来銅一〇万斤につき銀二〇貫匁に改定された(「日勤佐右衛門若州出勤日記路用控」住友史料館文書)。
 嘉永元年春、住友は休山を藩に願い出て、掛りの藩役人と折衝を重ねた結果、支配人与兵衛が本家より稼行を譲り受け請け負うことになった。与兵衛は稼行責任者として努力して利益を残し、本家仕入の負債を返還するように努めると述べている。住友稼行時の運上銀と産銅高は表87のごとくである。

表87 野尻銅山の運上銀・産銅高(1843〜48年)

表87 野尻銅山の運上銀・産銅高(1843〜48年)




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