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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      住友の銅山再開
 天保十二年に大坂の住友の手で銅山は再開されることになった。小浜藩主より再掘の届書を老中へ提出し、老中の承知の付札の届書が戻ったのが同年六月であった。九月には伊予別子銅山より職人が大坂に登り、若狭へ赴き銅山再開の途についた。これより先の三月に銅山地元一一か村の庄屋・惣百姓より郡奉行・郷方奉行に願書を提出して、銅山稼行が山林・田畑・漁業に大害を及ぼすと再開に反対し、大坂銀主方へ稼行委任するならば一一か村の田畑・山林等を藩が買い上げ銅山稼行人より代金を上納させるようにと、頑強な対策を述べている(村松喜太夫家文書 資9)。藩は領民との関係に慎重な姿勢を示しながら、財政上からも再開に期待すること大であった。
 別子より移った奏与兵衛が支配人となり、勘庭・鋪方・吹方・木方の諸部と、それに所属する職人も定められた。運上は出来銅一〇万斤につき銀三〇貫匁ほどの割合と決した。天保十三年中頃、山中家内・山師家内とも称する住友の奉公人として、諸部の課長に該当する支配人・役頭等五人、職人として鋪方三八人、吹方の砕女一二人、床前掛と木方一三人、計六八人とある(「若州銅山用談録」住友史料館文書)。同十四年中に住友から大坂町奉行所・銅座役所へ申請し、野尻銅の一手吹とし売上取次人(問屋)を末家の泉屋源兵衛とすることの認可をえた。同年度の廻着銅高六万四八六〇斤、弘化元年・同二年に本郷で船積の時に掛改めた銅高は計二一万七二八〇斤余となっている(「若州三幸銅売上届并諸用控」住友史料館文書)。
 さて、煙害は焼鉱の時に発生する亜硫酸ガスによる農作物・桐実等の被害、銅水害は坑内水が野尻川に流れ佐分利川に落ち合い、用水に使用されて起こる水田の被害である。弘化二年八月、夏土用より秋土用までの農作物成育期に焼鉱の休止を求めた本郷組の訴願が聞き届けられた(村松喜太夫家文書 資9)。野尻川が佐分利川に落ち合う手前から佐分利川に沿って溝を掘り、用水を分流するための最終の大井根(井堰)の下で銅水を佐分利川へ落とすという工事が弘化二年には完成している。また野尻山・本郷浜などの銅水流筋の諸年貢補償の各目で、毎年金二〇〇両を住友より藩へ上納した。



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