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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      野尻銅山の開坑
 野尻(三光・三幸)銅山は若狭大飯郡野尻村に、宝暦十年(一七六〇)頃開坑し、小浜藩の御手山とし藩の用人等が管理にあたり、但馬生野銀山より招かれた山師が稼行を担当した。大坂の銅吹屋大塚屋甚右衛門が堀大工等を斡旋したようで、明和三年に銅座が設置され、大塚屋は野尻の産銅を取り次いで銅座へ売り上げる問屋を勤めている(荒木新輔家文書 資9)。明和八年五月に休山するが、明和三年より同八年までの銅座売上高は計六六万八四〇〇斤二分で、明和八年中の売上高は四万九二五一斤四分である。代銀は一〇〇斤につき明和三年分は一五七匁五分三厘余、同四年以後は一六一匁である。大塚屋は問屋口銀・水揚蔵入料等諸経費を収め、代銀は荷主すなわち藩へ支払われた。野尻銅は間吹物(含銀量少なく銀外字を行わない)で、吹減七斤五分(荒銅一〇〇斤を真吹する)とある。明和五、六、七年の銅座売上高は、長崎御用銅担当の三銅山を別格とし、他の地売銅向の諸銅山中では屈指の量であった。
 野尻銅山は後年の安政二年の検分報告によれば、鉱脈は東西に走り、焼(露頭)幅が一尺ほどあり、西端は野尻村の寺の上から東に向かって伸びて峰を通り、峰を越えて鉱脈が現れているとある。寺の上とは禅宗西広(光)寺の南側、寺の背面を指している。西から上・下の由右衛門間歩、谷の端に三光間歩、東方に治郎右衛門・清五郎等の数か所の間歩が掘られた。産銅高は多かったにもかかわらず、休山となった主な原因は、農作物・山林・漁猟に対する煙害・銅水害の発生にあったようである。銅山の立地が集落・耕地と近距離であったためである。

(準備中)

図12 野尻銅山の図




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