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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      大野藩の御手山経営
 面谷銅山は天保三年五月に藩の御手山となり、明治四年の廃藩置県の翌年まで稼行している。藩が鋪持より外字を買い上げ、吹屋を直営し製錬した。荒銅は大野城下の東端の向島にある東吹所へ運んで南蛮吹を行った。
 面谷奉行は管理責任者で二人任命され、交替して面谷に詰めた。なおその上級の役に銅山御用掛頭取があり多くは他役と兼務し、随時登山して監督した。奉行の補佐役に調役があり、床屋方・炭方等を見廻り取り締まったが、調役頭取は必要に応じて登山し、調役と交替して詰めた。本番方・床屋方・炭方等の諸役所、および番所があり、それぞれ役人が付けられている。また、これらの諸役所を見廻り取り締まる支配人があった。本番役所は諸国鉱山の勘場に該当し、資材・食料品・日用品等を通帳をもって稼行人へ貸与し、代銀は外字代と差引勘定した。また床屋役所より荒銅を受け取り東吹所までの仕送り方を勤めた。山方役は諸間歩・鋪を見廻り、また藩直営の御普請鋪の掘子等の賃銀を定めたりした。床屋方は製錬関係を取り締まり、炭方は製錬用の木炭の仕入供与にあたった(「銅山記録」小葉田家文書)。
 御普請所は役所の手で採鉱出来るまでの諸工事を行い、外字五〇〇貫匁(一仕舞分)よりの出銅二五貫匁(これを三歩付といい、この程度の外字が多い)のもので、出銅の一〇分の一を上納し、それ以上の歩付のものは出銅分をすべて上納させた。主要坑は兎鋪で、稼行人も役所が雇用して採鉱も併せて直営した。明治になって銅山が面谷村有になった時、他坑は村民各自の持鋪・持堀場となったのに対し、兎鋪は村共有とされた。

表85 面谷銅山の産銅(荒銅)高(1832〜42年)

表85 面谷銅山の産銅(荒銅)高(1832〜42年)


表86 面谷銅山の産銅(荒銅)高(1864〜68年)

表86 面谷銅山の産銅(荒銅)高(1864〜68年)

 御手山時代の天保年間の産銅高を表85に示す。天保三年分は「御手山初八月より十二月迄」の出来銅である。同十一年度が最も多く、灰吹銀高も一〇〇貫匁に達した。この頃銅座へ廻着売上高の地売銅では面谷外字銅は出羽の大切沢銅に次ぐ量であった。嘉永二年七月、銅座は弘化三年(一八四六)より嘉永元年にいたる三か年の諸国銅山の平均出高を目当高と定め、それより出銅増売上分は当年より三か年一〇〇斤につき銀三〇匁ずつ値増をもって買い上げ、出増のある銅山の出銅に平均目当高につき銀五匁値増をすることとした。面谷銅山目当高は外字銅一三万三六六四斤五分である(「年々記」住友史料館文書)。なお、明治維新前後の産銅高は表86のごとくである。
 御手山となり産銅は一時期江戸へ廻送されたが、天保五年五月に銅座売上げとなり、問屋は泉屋の末家より高池屋栄次郎へ移った。当時面谷銅の直段は一〇〇斤につき銀一七四匁三分、手当銀四〇匁がつき計二一四匁三分で、その後手当銀の増減はあったが、嘉永二年前述の値増の定があった。問屋に布屋理兵衛が加わり、値増は安政四年まで延期され、なお以後にも継続したが、元治元年正月手当・値増等をやめ、新たに銅性・吹減程度により別段値段で買い上げることになった。安政四年に、元値段一七四匁三分に手当四〇匁、値増一一匁六分を加えて二二五匁九分とあり、元治元年に四一六匁四分と改定され、同年九月三〇〇匁の値増が告示されている(「万帳」斎藤政雄家文書)。
 明治元年二月に銅座を廃止して銅会所とし、さらに七月鉱山局と改めやがて鉱山司と称した。荒銅が廻着すれば市中相場で買い上げ、世話人(問屋)へは口銭を渡さず、山方と対談して世話料をとるべしと告示した。
 御手山経営の収支の一端をみてみよう。明治二年六月政府の布告により十二月に提出したという「鉱山出来高調帳」(土井家文書)に、藩支配地鉱山一か年の鉱産物代金と産出のための諸入費、および差引金高が次のごとく記されている。
  鉱産物代金 金四万七四八一両三分 銀二匁六分五厘
  諸入費 二万九五〇七両三分 銀一匁九分八厘
  残 一万七九七四両 銀六分七厘
 これは面谷銅山・中天井鉛より出来の銀・銅・鉛の計算とし、もっとも少しの稼行山もあるが問堀中であげないと注記している。中天井も御手山であるが、明治元年の産を目安に述べたのかも知れない。いずれにしても、右の金額の大部分は面谷の分であることは疑いない。



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