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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      面谷銅山稼行
写真60 面谷銅山跡

写真60 面谷銅山跡

 面谷銅山は、大野郡箱ケ瀬村枝村の持穴村地内に開坑し、全国的にも知られた鉱山である。地元には康永(一三四二〜四五)年間とか、天正年間の開坑という所伝もあったようであるが、『越前国名蹟考』に寛文九年の福井大火後に材木を伐り出した時に銅を発見し掘ったと記し、これも里俗の所伝と付記する。鉱脈発見は寛文以前にさかのぼるかも知れぬが、この頃全国的に銅山開坑の顕著な進展がみられた。延宝五年(一六七七)同郡御領村の弥四郎谷に銅山が開発され、翌年同村および近村が先年面谷銅山を取り立て長野村田地不作となった例をあげ処置を訴えている(伊藤三郎左衛門家文書 資7)。天和二年(一六八二)三月に土井利房が大野に封じられた時、「銀拾貫目 但年々不同 面谷銅山運上」(「大野藩郷村高帳」土井家文書)とみえる。元禄頃山元で南蛮吹が行われ灰吹銀を採り、外字銅として産した。元禄十四年幕府は大坂に銅座役所を設け、長崎御用銅(輸出銅)の確保を主目的として銅の集荷・製錬・配給などを統制した。大坂の銅吹屋より大坂町奉行所へ諸国銅の宝永五年から正徳五年の大坂廻着高を届けたが、大野(面谷)銅の廻着高、一〇〇斤につき値段、代銀高は表83のごとくである。外字銅以外は灰吹銀を抜かぬ荒銅で、上・大・一の印を付したものがある。荒銅値段は精銅製錬においての吹減程度、含銀量の多少などで決められる。宝永後期より正徳年間にかけ面谷の産銅は年産一〇万斤内外に達し、全国的にも有数の銅山であった。正徳二年には諸国銅廻着が減少して銅座は廃止され、享保元年より同六年までは御用銅(輸出銅)調達のため重要銅山に割賦銅高を定め大坂へ廻送させた。大野銅の享保元年度割賦高は七万斤、翌年以後三、四万斤となっている。御用銅は棹銅が主であり、大坂の吹屋は割賦銅(荒銅)を賃吹し、吹賃は荷造および長崎までの運送の諸経費とともに大坂の御金蔵より受け取った。大野銅割賦には外字銅も含まれるが、代価は鯖江の陣屋代官所より受け取っている。当時、面谷は大野町人の請負稼行であったらしい。

表83 大坂廻着大野銅高と代銀・値段(1708〜15年)

表83 大坂廻着大野銅高と代銀・値段(1708〜15年)

 元文三年に銅座が再設され、諸国銅はすべて銅座へ売り上げ、御用銅は吹屋に賃吹させ長崎へ廻送させ、また地売に吹いた銅も銅座の指示により払い下げた。延享元年銅座は必要分のみ買い上げ、残りは希望向へ売り渡すことを認めたので、地売銅販売が自由となって銅相場が下落し、寛延三年(一七五〇)に銅座は廃止された。この間のある時期に、大坂の吹屋で銅山師でもあった多田屋市郎兵衛が面谷を請負稼行したようである。
 銅座廃止後、大坂に長崎御用銅会所を置き、長崎奉行所管下に御用銅定高三一〇万斤(棹銅計算)を目標に買い上げることとし、秋田・南部・別子立川の三銅山にこれを割り当て、他銅山の出銅も多少買い上げて補充もした。明和三年には長崎御用銅会所を取り立てて第三次の銅座を開設した。三銅山の御用銅向分買上げのほか、他銅山の出銅は地売向として、問屋・船宿立会のもと斤量品質を改め、問屋を通じて山元荷主へ銅座より代銀を払い、問屋へは口銭二分を与えた。銅は問屋より吹屋へ届けて製錬させ、地売値段を公定し、吹屋・仲買人に一定の口銭を与え売り捌かせた。後に三〇万斤単位に入札によって払い下げている。なお、大坂廻着銅の目方掛改高に対して、入目と称して改高一〇〇斤につき一〇〇匁を控除し残高に対し代銀を支払った。安永五年(一七七六)頃大野町人沢屋由左衛門・鍋屋甚左衛門が大野銅荷主で、彼等が銅山の仕入元締であったらしい(宮澤秀和家文書 資7)。
 寛政三年二月、支配勘定笹川運四郎が面谷を検分し、十二月幕府は水抜普請等のため金五〇〇〇両の拝借を許し、銅座より大野藩に金が渡された。当時銅山は藩の御手山となっており、拝借金は同五年より六か年賦の返済とし、銅座へ売上の銅代をもってした。同九年の返納銀二四貫四五九匁は泉屋(住友)の末家より納めているが、末家は面谷銅の問屋を勤めたのである。同年末大坂廻着銅の荷主は綿屋伊右衛門で、この頃綿屋が稼行主となっていた。泉屋は翌十年より稼行を請け負うことになり、三月頃より採鉱・製錬の職人を派遣している。同年度の大坂廻着銅の掛改斤高は合計三万四六五五斤九分、入目斤高二一六斤六分、代銀は値増銀を加えて五六貫六一四匁四厘七毛であった。外字銅で、山元で製出した灰吹銀は京都銀座売上より銅座へ移して売り上げた。経営不振のため泉屋は二か年で手を引き、綿屋のほか大野町人本庄屋長右衛門・岩井屋儀兵衛と面谷の尾崎喜八郎が稼行を継いでいる。文化・文政(一八一八〜三〇)年間の銅座への売上銅高は表84のとおりである。代銀は一〇〇斤につき一六一匁、文化五年には銅質に応じて一〇〇斤につき七、八匁より二〇匁まで値増し、同八年に前年以後の廻銅分に対して一〇〇斤につき五〇匁の手当を付加することになった(「文化五戊辰年年々帳」住友史料館文書)。

表84 大野銅銅座への売上高(1810〜29年)

表84 大野銅銅座への売上高(1810〜29年)




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