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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      銅山の開発
 室町時代前期に銅山開発が進んだことは、銅の中国への輸出状態からも察せられ、銅山は主として中国地方にみられた。十六世紀後期以後に、ややその興隆が推測されるが、銅山は中国・九州の西日本の山が知られる。しかし、そのめざましい開発と産銅の増加は、十七世紀後半から十八世紀初頭にかけ、すなわち寛文(一六六一〜七三)頃より元禄にかけてであった。銅山の開発の盛行は、ほぼ金銀山の衰退に代わっている。この時期に著名な金銀山であったものが銅山として更生したものが少なくない。南部領の尾去沢銅山は、近世初期に開かれた西道金山が衰退し、寛文六年に同地方の田部沢・元山・赤沢等に銅鉱が発掘され繁栄するにいたった。阿仁銅山も、もと金銀山であったが、寛文十二年に小沢に銅鉱が発見され、ついで萱草・二の又・真木沢・三枚・一の又と阿仁六ケ山が開発されて大銅山となった。別子銅山は元禄四年より稼行されて同十一年には二五三万斤余の産銅をみた。以上は近世の三大銅山の開坑を例示したまでである。
 越前においては「絵図記」に、坂井郡山竹田村に銅山の跡ありとあり、また坂井郡山口吉谷村に金山銅山の跡、あるいは銅山跡あるを記している。竹田・山口では幕末から明治にかけて稼行され産銅をみた。「絵図記」には箱ケ瀬村朶村面谷村の内に銅山ありとし、貞享頃に稼行中の鉱山としては面谷銅山のみをあげている。近世中後期に稼行された銅山に、大野郡の荷暮・角野の銅山がある。
 明和三年(一七六六)銅座が大坂に再興されたが、銅座では銅吹屋を指定して諸国銅の糺吹を命じて、精銅に吹くに吹減高と出灰吹銀高を報告させた。荷暮銅は寛政元年(一七八九)十二月の糺吹に初めて報告がある。泉屋(住友家)では文化十年(一八一三)中に製錬した荒銅中に荷暮銅四〇四斤四分があり、これより精銅三七五斤七分と灰吹銀六一匁六厘四毛を吹いている。延享四年(一七四七)三月に荷暮村の金倉銅山の吹屋を葺くための萱を、郡上藩より穴馬の諸村に命じ調達させているが、同じ銅山であろう(「聞書写」)。荷暮村は郡上藩領で当時御手山であったらしい。天保十二年(一八四一)にも郡上藩の御手山となり、のち一時これをやめ安政元年再び御手山としたようである。
 角野銅山は元文二年(一七三七)泉屋の奉公人仙右衛門が検分に赴き外字筋(鉱脈)よく有望な部分のあることを報告し、「銀鉛銅の鉱石あり、たりもの即ち銀垂り(灰吹銀)もある」とある(「宝の山」住友史料館文書)。しかし、同鉱山についてその後の経過は明らかでない。慶応三年春、大野郡の幕府領下荒井村の次郎兵衛が角野銅山稼行を請け負い、翌年八月福井藩の御預役所宛てに拝借金を願い出ている(鳥山治郎兵衛家文書 資7)。
 若狭では宝永七年(一七一〇)三月に、泉屋の手代彦右衛門が三か所の銅山を検分している。三方郡の日向銅山は外字筋三本あるが役に立たず、ただ当時小浜町人板屋徳右衛門と藩より委任された茶屋小四郎が稼行し、捨ておいては藩の手前があり継続していると報告している。同郡早瀬銅山は小外字二本あるも役に立たず、向後の検分は無用とある。所在不明の福原銅山は小外字一か所で外字(鉱石)つら三、四寸で役に立たず、向後の検分も無用としている。以上彦右衛門検分の帳面があり、これを寛保二年(一七四二)写し置いた記録によって記載したという(「諸国銅山見分控」住友史料館文書)。これら三銅山のその後の消息は明らかでない。



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