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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      堀名銀山の衰退
 文久二年五月松山は本保役所手伝に転じ、地役人頭取吉住礼助が銀山詰を命じられるが、ほどなく彼は高山へ帰任し、以後は詰切の出役は置かれず本保から出役が随時見廻るのみとなった。それは産銀が著しく減少したからである。文久二年上半季の精灰吹銀の高山への差立は四〇貫一〇六匁、下半季には一三貫三五一匁であった。同三年には退勢いよいよはなはだしく、同年分の差立は六貫八一一匁六分に過ぎなかった。翌元治元年(一八六四)の盆前の差立は精灰吹銀二貫二七四匁であった(日下部礼一家文書)。
 さて銀座では飛騨の出灰吹銀の買上げ代を、文久三年九月に八分五厘増して都合四双替としたが、さらに十二月に四双七分替に改めた。堀名の出灰吹銀も同価である。四双七分替とは精灰吹銀一貫匁を通用銀(政字銀)四貫七〇〇匁に買い上げる意である。元治元年盆前の差立の堀名出分の精灰吹銀は、当時の金銀両替相場によればおよそ金一七八両余となる。
 



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