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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      堀名銀山の稼行
写真58 堀名分銀山之図

写真58 堀名分銀山之図

 大野郡堀名中清水村のうち堀名分の地内に稼行された銀山である。「絵図記」に、公領勝山分の堀名中清水村に銀山の跡ありとみえ、近世の初前期には銀山が開発されていたらしい。
 幕末の嘉永(一八四八〜五四)末年頃に採掘が試みられたが、安政六年(一八五九)八月高山駐在の郡代増田作左衛門頼興は地役人頭取富田藤太(礼彦)に堀名銀山取締のため出役を命じ、飛州銅銀山取締役東屋文七に試掘を指示し、十月両人は堀名に赴いた。十一月文七より堀名分村方役人へ宛て、堀名分銀山字京ケ谷のうち甚三郎持山にある鉱脈の稼行を承認され、その試掘中は玄米一俵を毎年極月限り渡す一札を納めている(石倉惣右衛門家文書 資7)。当時、幕府は銀増産の政策によって、高山に銀絞吹所を設け飛騨産の銅鉛より銀を採取したが、その事業に添う一環として堀名の開発が企図されたのである。銀絞吹所取締役中島清左衛門も、文七とともに堀名の稼行の責任を負わされたが、他の職掌の関係もあって堀名へ詰めなかった。
 当初は、堀名で生砂銀(濡砂銀)を野焼した焼砂銀を高山銀絞吹所へ送り製錬した。銀鉱を粉砕し篩にかけ選別し、淘汰盤で淘りあるいはせり流して、ざる上げにより選鉱したのが濡砂銀である。焼砂銀に鉛またはるかす鉛(製錬に使用した鉛を回収したもの)を合わせて含銀鉛を製し、灰吹銀を製出した。また押吹と称した銀鉱は直ちに大吹(鉛・るかすを合吹する)し含銀鉛を製して灰吹した。しかし、やがて堀名の地元で灰吹まで行うようになった。
写真59 堀名銀山小屋絵図

写真59 堀名銀山小屋絵図

 万延元年(一八六〇)四月、富田は郡代手付松山粂太郎と交替し、文七も詰め切りは出来かねて代人が詰めることもあった。同年高山役所から江戸の銀座へ送った灰吹銀中で、堀名の出銀分は九八貫六六二匁とあり、飛騨の出銀分より多かった。翌文久元年中に堀名より高山へ差し立てた灰吹銀高は一一九貫三〇七匁で、同年中に高山役所から銀座へ送られた灰吹銀中で堀名出銀分は、前年中に高山へ送られた繰越し分を合わせて一二七貫一〇二匁四分とある。この銀高は飛騨の出銀分の一・七倍に近い。しかし文久二年の中頃から銀山の衰退が顕著になった。さて盛時の稼行関係の人員数は、山見廻り等の取締監督関係一〇人、掘大工等の採鉱関係五〇人、大吹・灰吹・せり場等の選鉱製錬関係四四人、飯焚・小使等二一人であった。この一二五人のほかにも飛入と称した臨時の雇人が数十人あった。また堀名の住民には世話方がおり、医者や勝山町商人の出入があった。なお、世話方は堀名分庄屋等が勤め、稼人の身元請人となったり、銀山会所の借用金の保証人になったりしている(日下部礼一家文書)。



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