大野郡堀名中清水村のうち堀名分の地内に稼行された銀山である。「絵図記」に、公領勝山分の堀名中清水村に銀山の跡ありとみえ、近世の初前期には銀山が開発されていたらしい。
幕末の嘉永(一八四八〜五四)末年頃に採掘が試みられたが、安政六年(一八五九)八月高山駐在の郡代増田作左衛門頼興は地役人頭取富田藤太(礼彦)に堀名銀山取締のため出役を命じ、飛州銅銀山取締役東屋文七に試掘を指示し、十月両人は堀名に赴いた。十一月文七より堀名分村方役人へ宛て、堀名分銀山字京ケ谷のうち甚三郎持山にある鉱脈の稼行を承認され、その試掘中は玄米一俵を毎年極月限り渡す一札を納めている(石倉惣右衛門家文書 資7)。当時、幕府は銀増産の政策によって、高山に銀絞吹所を設け飛騨産の銅鉛より銀を採取したが、その事業に添う一環として堀名の開発が企図されたのである。銀絞吹所取締役中島清左衛門も、文七とともに堀名の稼行の責任を負わされたが、他の職掌の関係もあって堀名へ詰めなかった。
当初は、堀名で生砂銀(濡砂銀)を野焼した焼砂銀を高山銀絞吹所へ送り製錬した。銀鉱を粉砕し篩にかけ選別し、淘汰盤で淘りあるいはせり流して、ざる上げにより選鉱したのが濡砂銀である。焼砂銀に鉛またはるかす鉛(製錬に使用した鉛を回収したもの)を合わせて含銀鉛を製し、灰吹銀を製出した。また押吹と称した銀鉱は直ちに大吹(鉛・るかすを合吹する)し含銀鉛を製して灰吹した。しかし、やがて堀名の地元で灰吹まで行うようになった。 |