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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      金銀山仕法
 福井藩初期(支藩を含めて)の金銀山の仕法を示すものに、元和二年(一六一六)五月の大野郡宝慶寺八ケ山家銀山の定書(麦屋文書)がある。福井藩老臣の大町靱負等より出役の代官と思われる青木新左衛門へ宛てた五か条より成る。第一条に両銀山は当年五月四日より明年四月四日まで運上丁銀一五貫匁で稼行を申しつけ、うち七貫五〇〇匁は当年十月に、残りは明年五月に上納させるとある。福井藩の金銀山制規は隣藩の加賀藩のそれに類するものがある。加賀藩では、親方と称する山主が普通は一か年の運上高を契約して稼行を請け負う請山法と、いく人かの山主が、多くは一間歩単位に藩より派遣の奉行の支配下に、一か年の運上高を入札により決めて稼行する直山法があった。宝慶寺八ケ山家銀山の場合、運上銀一五貫匁の契約は一人の山主の請山らしく、定書の日付は五月四日より向こう一か年とする運上銀の決定指示と同日付で、これより以前に山主より申し出があり藩老の手で裁可したものと推量される。定書の第二条は、稼行希望者は一応現稼行山主に話し、運上次第つまり現山主の運上高より増額することによりその者へ申しつけ、その月分の運上は先山主に対し免除するが、産銀増加の時、別人が運上増を申し出る以前に現山主が運上増を申し出るべきであるとある。運上増を申し出ることを手上といい、加賀藩その他の諸藩の鉱山仕法も、手上につき希望の山主はいちおう現山主に断って、運上増を願い出たものに稼行が渡されるが、なるべくは現山主が運上増を申し出るのが望ましく、もし別人に稼行を渡す時はそれ以後の契約運上は免除された。第三条は、銀山に入る米は大野町中の相場に対し納四斗入一俵につき銀五分高の値段とするとある。堂島金山の例をみると、銀五分は入役として米一俵に対し課徴したようである。第五条は、「以前よりありきたりのごとく諸役申しつけ運上のたしにせよ」とある。このように、銀山内に入る諸貨物に入役を課すことは諸国鉱山にみられる仕法であった。
 加賀藩における初期の金山定は、藩主名で山主宛てに出されていて鉱山開発が重視されていた。鉱山周縁の地域は自由に採鉱が許され、手寄次第に矢留木(坑内用木)・小屋木・炭木等の用材伐採が認められ、鉱山とその集落、すなわち「かね山」は無高無反別で鉱山関係の運上諸役のほか、年貢・小物成等の諸税は課されなかった。諸藩においてもこれと類似の政策をとっており、福井藩でも同様であったと思われる。
写真57 堂島金山御運上銀万算用目録

写真57 堂島金山御運上銀万算用目録


図11 堂島金山付近(5万分の1地形図、荒島岳図幅)

図11 堂島金山付近(5万分の1地形図、荒島岳図幅)

 堂島金山の「運上目録」「皆済目録」(伊藤三郎左衛門家文書 資7)によれば、寛永八、九年頃には衰退期となり、運上も稼行主が一か年分を契約したのでなく、出来高の歩合によったらしい。諸役として入米分一は金山町に入る米に対する課税で一俵につき銀五分の分一銀であった。また万分一は万小役・万役とも称され、金山町に入る諸貨物に対する課税で、諸国鉱山では鉱山内の値段の一〇分一を入口番所で徴収するのが多くの例であるが堂島の場合の歩合は確かでない。金山町は加賀藩の「かね山」と同じく無高無反別であったが、稲役と呼ぶ税があり、金山町住民により稲作も行われていて多少の課役があったらしい。休山後の承応三年に高四〇石余で定免一割の堂島村枝村として成立したが、山林の用益などが渡世のための手段化したことから近村との間に問題が生じた。万治二年(一六五九)七月、金山に隣接した小黒見・落合・八町・森本の四か村より、橋爪村同様に先山手(元の額の山林税)にて請けることとし、金山の者の山への立入禁止を福井藩へ出願した。その述べるところは、御山手決の時、一の瀬より口の分は堂島・落合二か村の立山、一の瀬より奥の分は五か村の立合山剥(入会山)に決して山手の割当とし上納したところ、金山開けて多く人集り山林を伐り荒らすので、以上の七か村より訴えて山手半分を減免された。しかし、現在は小黒見等四か村の山が伐り荒らされて迷惑するというのである。山手決の時とは福井藩初期のことであろうか。七か村とは堂島・落合・小黒見・八町・森本・橋爪に蓑道を加えたものであろう。橋爪は万治二年以前に先山手すなわち半減以前の元の山手を納めることにしたとみえる。しかし四か村の訴願はそのとおりには承認されなかった(清水甚右衛門家文書)。
 元禄七年三月、金山町の庄屋惣百姓より勝山藩に、堂島村に山札銀を納めて山入することは金山の潰れになるので、六つ割一つを金山に命じられるか(堂島の山手米の六分一を負担)、堂島が落合・森本・八町の三か村に下し山をし年貢米一か村より二俵ずつ取り立てているが、金山町にも右の三か村並に仰せ付けられたくと訴えた。小笠原氏の勝山入封の翌年元禄五年に、金山町・堂島村の間に山論があり、金山より山入の時に堂島へ山札銀を出すこととなって、牛馬一匹に銀一〇匁、歩行荷一人に同五匁を納めることになったのである。その後も堂島と耕地開拓について、また同村や福井藩領小黒見村、元禄十年郡上藩領となった上打波・下打波・東勝原諸村など近村との山論が続いている(森宗吉家文書)。



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