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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      銀山の開発
 文禄二年四月に、当時は長谷川秀一領であった北袋銀山を、三宅一円なる者が運上銀三〇枚(一枚は四三匁)で請け負い稼行していたのに対し、末吉二郎兵衛が七〇枚の運上増をもって願い出て請け負うことになり、その内の二〇枚を上納し、豊臣秀吉から代官として金山を支配していた山中長俊宛ての請取状が出されている(東末吉文書 資2)。慶長三年の「蔵納目録」に「越前二十二枚七両三匁二分 越前北袋銀山 浅野弾正」とある。「絵図記」に幕府領勝山分の桧曽谷村の朶村新町の上に銀山跡があることを記している。これが北袋銀山である。新町は銀山稼行の従業者等によって形成されたのであろう。元禄十年(一六九七)の同村の「郷盛村入用帳」に「神田喜兵衛様金山見立」などとみえ、享保五年十月当時幕府領であった桧曽谷村庄屋等から代官に宛てて、同村は銀汁かかりの悪地ゆえ、鷹餌代・道代・雪垣代の課役免除を願い出ている。それについては、先年福井藩時代に無役に仰せつけられ勝山藩領時代にも無役で、幕府領となり右の由緒を上申して無諸役の免札を下されたと述べている(津田彦左衛門家文書 資7)。
 「蔵納目録」には、北袋銀山のほか、「越前三百六十枚 越前府中槙谷銀山 京三條口 又右衛門」「越前二百九十八枚九両 越前国大野郡銀山 林伝右衛門」の記載がある。槙谷銀山は「絵図記」に南条郡牧谷村に「銀山之跡あり」とあるのに該当するが、大野郡銀山とはいずれか明らかでない。慶長頃稼行の銀山と推測されるものに、細野口銀山があり、「絵図記」に細野口村西に銀山の跡があることを記し、また慶長十年頃の「越前国絵図」には秋生村の伊勢越の道に向かって銀山が記されており、さらに後述の宝慶寺村の銀山がある。
 幕末に勝山藩領細野口村役人と幕府領宮地村役人との間の細野口銅山の悪水についての出入の内済証文がある。細野口村で近年銀含みの銅山を開坑し、文久三年(一八六三)頃から盛山となったが、吹立小屋より宮地村耕地界まで五町ほどの距離で、細野口村より江筋を掘り筧を仕立て悪水を処理することとし、双方納得したという。この証文に「数百年来仕来候銅山」と記し、銀銅山として古き開坑を伝えている(石塚半兵衛家文書 資7)。



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