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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    一 鉱山の開発
      金山の開発
 「絵図記」に、金・銀など鉱山跡とある諸山は、十六世紀後半織田信長の越前支配の時代より結城秀康が入封した福井藩成立期にかけて開坑したものが少なくなく、そして稼行期間が短くして休山したものが多いと推測される。
 今立郡文室村の金山は、前田利家の府中入封の頃開発されて、府中の大文字屋が稼行を請け負ったと伝える。享保三年(一七一八)三月、幕府領であった文室村は、田地に金山跡の金砂が流れ込み悪所となっているので年貢の減免を西鯖江役所宛てに出願している(清水政之家文書)。大野郡温見村の金山も、温湯(温見)村一同より松平忠直に出した願書に、四〇年前まで盛山であってその後休山した旨が記されているので元亀(一五七〇〜七三)・天正(一五七三〜九二)頃には採掘されていたとみえる(『西谷村誌』)。豊臣政権下では金銀山は公儀のものすなわち公有主義をとり、諸領主・奉行に命じて金銀を伏見へ運上させた。慶長三年(一五九八)の「蔵納目録」(『大日本租税志』)に「越前五枚五両二匁六分 越前今荘(今庄)黄金山 浅野弾正」とある。「今荘黄金山」は南条郡板取村の金山であろう。
 文室金山に隣接し、今立郡魚見村地内にも「絵図記」に金山跡を記している。明治四十四年(一九一一)の三井文庫蔵「越前文室及魚見鉱区調査復命書」に、「文室・魚見鉱区は、今立郡味真野村と上池田村の二村にまたがりて往昔銀鉛鉱を目的に稼行された証左あり」とし、魚見鉱区の主要坑として大藤坑の調査を報じている。幕末期には福井の斎藤八郎右衛門が大藤山にて弁柄を生産している(岡文雄家文書 資6)。同じく今立郡大本村の中瀬谷金山は、慶安(一六四八〜五二)年間頃諸方より金掘が集まり、かなりの産金高があったが、三年ほど続き衰えたという(山本仁輔家文書)。金山は大本村より四町ほど部子川を下った中瀬谷にあると正徳三年(一七一三)の覚書にみえる。「絵図記」には、大本村東南の西青村、南方の蒲沢村等にも金山跡があることを記している。正保元年(一六四四)七月福井藩は大本金山町組頭中に、大本村・金見谷村・火之坪村(千代谷村)・荒谷村・蒲沢村において金山となる場所を見いだせば速やかに注進するよう指示している(「福井藩奉行連署状」)。これら諸村は今立・大野の郡界に聳える部子山の山麓に位置する。青木一矩から大滝村の紙匠三田村掃部等に宛てた書状に「へこ四村之内ニ金子山可有見立之由聞届候、無油断ニ念ヲ入、可然様ニ相見之次第追々可申越候」とある(三田村士郎家文書 資6)。一矩は文禄四年(一五九五)に府中に入封し慶長四年に北庄に転じているが、この書状は府中時代のものと思われる。
 大野郡堂島村の金山は慶長年間頃始まり、寛永十年(一六三三)頃までは稼行されていたらしい。寛永八、十年度の堂島金山の運上銀および金山への入米の分一課徴銀の文書が残っている(伊藤三郎左衛門家文書 資7)。金山の間歩(坑)は小黒見・東勝原・堂島等の持山に掘られており、金山町は堂島の地内を中心に成立したらしく、承応三年(一六五四)の検地によって高四〇石余の同村枝村として成立した。



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