十六世紀中頃より各地に金銀山が開発され、金銀が著しく増産された。戦国大名の領国中心の経済から商品流通が拡大発展して、やがて全国的経済へと進展する過程に対応したものであった。金銀とくに産銀の増加は十六世紀中頃以来の日本の対外貿易の発展の基ともなったが、他方において従来の通貨であった銅銭に比し、はるかに価値高い貨幣として金銀が通用されてきた。
銀山の開発は、石見銀山を初め山陰・山陽に早くみられたが、産金は東北地方の古来の砂金採取に代わって、山金の製錬が甲斐・駿河・信濃や越中・加賀など北陸地方にも進められ、こうして金銀山の開発は全国的にみられた。
さて、貞享二年(一六八五)の「越前地理指南」「越前地理便覧」に、金銀銅鉛山の跡があると注記された村のうち金銀山の分をあげると次のようである。
金山の跡
今立郡 魚見村・大本村(中瀬谷という)・蒲沢村・西青村・横住村(宅良谷)
南条郡 板取村(四か所)・新道村・河野浦
坂井郡 二ツ屋村・梶浦・山口吉谷村
大野郡 堂島村・平泉寺村・温見村
銀山の跡
丹生郡 佐々生村今立郡 文室村
南条郡 牧谷村・鋳物師村
大野郡 堀名中清水村・桧曽谷村・細野口村・小原村
また、『越前国名蹟考』には、前記の二記録のほか、同じく貞享二年の「越前地理梗概」を加えて「絵図記」の名で引証し、鉱山の跡を付記している(以下、三記録を「絵図記」として引用)。 |